【著者】 沢田五郎 【書名】 とがなくてしす 【入力者】 柴丹敏和  U.原文との差異 ●記号等  @ 原本中のルビ及び傍注の文字【注1】等は丸カッコのなかにいれて入力しました。  A 入力者注カッコは[ ]を使用しました。  B [*199−15] 丸カッコのなかにさらに丸カッコが使われているので、【療養所(前条の……………以下同じ、)において、】の部分のカッコを中カッコで入力しました。  C識別子は3階層まであります. ●文字  @ 以下の文字は原本では旧字を使っているので、俗字で入力しました。    [*183‐17] トク(さんずい、18画) → 【入力】涜  A 以下の文字は原本の校正ミスと判断して修正して入力しました。    【原本】しなければらなない 【入力】しなければ[*157−13]ならない    【原本】又は又はその 【入力】又は[*189−14]その  V.連絡事項 @以下の文字は口語文では促音(小文字の【っ】)で表記されるのが普通であるが、原本では大文字の【つ】で表記されております。法律の元本で確かめることができなかったので、原本通り大文字で入力しました。  P192−13 【場合であつて】  P192−15 【場合であつて】  P193−7  【処分によつては】  P195−13 【附き添つた】  P196−1  【行つた】  P196−17 【ものであつた】  P197−16 【怠つたもの】  P197−18 【従わなかつた】 A 原本[*121−2]のルビ文字【ママ】は文字の追加と判断し、原本【聞き込んだ】の後に続けて入力しました。 原本の小見出しに番号はありませんが、1から6までの章番号をつけました。 注は本文中に番号だけつけて、章の終わりに纏めてあります。 文中に作者の短歌がありますが、本文と区別するために頭に*をつけました。 本文は縦書きで漢数字を用いていますが、固有名詞を除いて算用数字に改めました。 但し、資料集の部分は、漢数字そのままにしました。 入力者注終わり $まえがき ハンセン病患者の強制収容という国家の目的に服さないものを処罰する弾圧手段として、「特別病室」という名の重監房があった。癩予防法の「患者懲戒検束権」という所長に与えられた警察権に基づき、国立ハンセン病療養所栗生楽泉園1938年に設けられたものである。この存在のために、ハンセン病患者は厳重な隔離強制収容政策にしたがうよりほかはなかった私は数え年の12歳で栗生楽泉園に収容されたが、来る早々、特別病室から連れ出されて入浴、整髪をされている患者を見かけ、あまりの無残な姿に驚いたものであった。このときの記憶から、人間が人間をあれほどまでに侮ってはいけないという思いが消えずに強く残った。本書は1996年「らい予防法」が廃止されるにあたって、あの特別病室を見た者として、記録しておかなければならないという責任感にかられ、栗生楽泉園機関誌『高原』に連載したものをまとめたものである。初版は1998年に「ぶどうぱん通信」から刊行したが、再版にあたって増補改訂をし、皓星社から出版することになった。 私は70歳を過ぎ、目も不白由となり、今年は体調も思わしくないところから、社会復帰をはたして生活をしてゆくことはままならないが、この特別病室のことだけはしっかり記録しておかなければならないという思いから、本書を刊行することとした。 *莚(むしろ)の上髪刈られつつこちら見し彼の眼が我にいまもの言わす $とがなくてしす $$とがなくてしす *ともどもに学びし鈴木もしばられて零下20度の監房に死にき 私の第一歌集『風荒き中」(鎌倉書房・1967年)にこの歌がある。 鈴木というのは、「上の監禁室」(注1)とも「重監房」ともいわれていた特別病室で、1946年1月4月に亡くなった鈴木義夫である。私と同じ天城舎(男性軽症独身舎)にいて、一度逃走し、その後殺人嫌疑で送致されて特別病室に入れられたのである。 その人のことをこれから書こうとするのだが、それに先立って調べためておいたものを改めて見ると、彼の生まれは1927年5月で、入所は42年5月、その年の12月30日に逃走、となっている。 (鈴木義夫は仮名である。詳しい本籍地もこのさい書かない。なお、『風雪の紋」〈栗生楽泉園患者自治会編・1982年〉と入園・逃走年月日が違うが、こちらが正しい。)入園したときに数えの16歳だから義務教育は終わっていたはずだが、病気のため休学していたのか、児童患者のために設けられた望学校(注2)に通っていた(尋常小学校6年終了後、中等学校に相当する専門学校に上がっていたともいう)。私は鈴木義夫の3歳年下で、やはりそのころ望学校の生徒であり、また、同じ天城舎で生活する仲間でもあった。鈴木はたいへん無口で、額に本病特有の斑紋が出ていたため、学生帽をまぶかにかぶっていたことを憶えている。園を逃走したのが41年の11月30日、その後実家に帰っていたが、約1年11ヶ月すぎたころに連れ戻された。亡くなったのは敗戦後の46年1月4日、18歳であった。特別病室では1年2ヶ月あまり生き延びたことになるが、後でも書くように、冬期には酷い寒さとなる特別病室でこれだけ生き延びるというのは奇跡に近いことなのである。 「零下20度の監房」と歌にある。この温度が正確かどうかはわからない。歌集を編むとき、これはオーバーではないかとも思ったが、戦後、楽泉園に放送室ができて、夜明け前の温度を放送してくれるようになったころ、よく零下18度という放送があったのである。そこで、特別病室のあたりはもっと寒いだろうと思い、そのままにしたのであった。 さて、この特別病室があったのは、園の正門から西に入る道が80メートルほど行って行き止まりになった先の、やや低地になったあたりである。今は礎石だけが残り、「重監房跡」と彫られた碑も建っている。 建坪32.75坪(約108平方メートル)、二棟になっていて(一棟だが、迷路のように通路が入り組んでいたので二棟と思われたという説もある)、治療室と看守の控室と、罪を犯した患者を入れる房が8房。1房の広さは便所を含めて約4畳半、床は厚い板張りで、壁には、コンクリートがむき出しのところもあったが鉄板が張られており、高いところに一ヶ所明り取りの窓がある。この寸法は縦13センチ・横75センチで、硝子戸が2枚はめられ、引き違いに動くようになっている。窓の外には鉄格子がある。食事を差し入れる窓は足元にあり、普通の便所の掃き出し窓より小さく、汁椀がやっとくぐるくらいとなっている。 周囲には高さ約4メートルの鉄筋コンクリートの塀が巡らされ、内房も一房一房、同じ高さの塀で仕切られ、通路にも一房ごとに3尺角(約1メートル四方)の扉がある。その扉にはいうまでもなく、錠が下ろせるようにできている。 最初の扉をくぐってから一番近い房へ行くまでに4つの扉をくぐらねばならないところから、この監房を「五重の扉に閉ざされたところ」と書いている本もある。 収監者を出し入れする扉は3尺角で、太い木の格子、その内側に部屋に張られたのと同じ鉄板が打ちつけてあり、外側には鉄棒が何本かつけられている。 電気の配線はなされていたが電球は取りつけてなく、収監者には袷(あわせ)1枚と布団2枚が与えられただけで、火の気は与えられない(入れられるときに着ていた下着はそのまま、6から9月までは単(ひとえ)、10月から袷で、帯はない。布団は敷1、掛2だったとの説もあるが、いずれにせよちゃんと打ち直して再生した布団ではなく、ぼろ倉庫に収められていたものを与えたことには間違いない)。 明り取りの窓は高くて小さいゆえ、幾重にも高い塀で閉ざされた塀の中は暗く、曇った日には昼夜の区別さえつかなかったという。そして、誰かが掃除をしてくれるわけではなく、箒も雑巾もないから、湿気るにまかせ、冷えるにまかせるほかはなく、冬は吐く息が氷柱となって布団の襟に下がり、房内は霜がびつしりと降りた。 収監者には減食の刑も課せられているので、日に2回、薄い木の箱に入れた少量の飯が差し入れられるだけである(「握り飯を与えた」と書いた本が出回っているが、これは正しくない)(注3)。朝食は一般の給食と同じ時間に出され、汁がついている。ただし汁の実はなかったという。昼は一般の給食より少し早く、汁はなく、飯は朝の箱より5割方大きい箱に入れられていて、これ以後に食事はない。おかずは朝昼とも梅干1個だった。 この食事運びは患者作業(注4)だった。朝7半ごろ、岡持(おかもち)のような箱に人数分だけ入れてもらい、汁はほうろうびきの深い器、これに蓋がついていて鍋弦(なべづる)のような取っ手がある、それを手に提げ、岡持を肩に掛け、本館の裏を通って正門脇の坂をどんどん登ってゆくのである。守衛詰所で声をかけると、「ご苦労さん」と中から言う人もあり、出てきて深々と頭を下げ、「お願いします」と言った人もいたという。要するに、ここから先は本来守衛の仕事なのだが、あなたにお願いするという意味であった。 昼は汁はないので、やかんでお湯をやるのである。そのやかんも、守衛詰め所の外に置かれていて、「お願いします」と言うと守衛が沸いた湯の入ったやかんを提げて出てきて、それを入れてくれたとのことだ。 ここに入れられてしまえば、日に2度、食事運びの人が来るだけである(注5)。あとは新たに収監者があった場合、または死者が出た場合、分館長か守衛に引率された世話係(注6)がぞろぞろ通るだけである。その他に汲取人が年に何度か入っているが、これは外部の人に会えたというほどのことではない。 食事を差し入れる人は、最初のうちは恐怖にかられ、一刻も早く仕事を済ませてそこを立ち去りたい一心から、中の人と言葉をかわすゆとりなどなかったという。 長く続けて馴れてくると、収監者に「俺は無実だから分館(現在の福祉課。園の運営実務を実質上すべてまかなっている部署であり、当時は、分館長は患者にたいして絶対的な権力を持っていた。)に行って早く出してくれるように頼んでくれ」などと言われた人もいるようだが、あまり手間取ると守衛に「遅かったじゃないか」と言われるので、ほんの2言3言言葉をかわすのが関の山だったという。 私は楽泉園に来てまもないころ、この特別病室の人が月に一度の入浴後、分館の窓の下に莚(むしろ)を敷いて座らされ、頭を刈ってもらっているところを目撃したことがある。そして、その人たちのあまりの異様さに思わず後ずさりし、しばし凝視したことを憶えている。髪の毛の黒さは普通なのだが、肌の色はただただ白く、白布をよく晒(さら)してもこうはなるまいと思うほどのもので、透き通るばかりなのである。 またあるとき、それらの人を再び特別病室へ送ってゆく列に出会ったこともある。 しかも、そのうちの1人は担架に乗せられていたのであった。あとで聞いたところによると、その人は入浴後へたり込んでしまったため、看護婦が注射を打ってやったがまだ歩けない。そこで担架に乗せて運んだとのことだ。 こうした光景はだれもがよく目撃したものである。そして見た人は、あれらの人はいったい何をしたというのか、故郷恋しさ、肉親恋しさから何回か無断帰省し、逃走常習とされた人、または職員の指揮命令に従わなかったことがあるため、不穏分子にされてしまった人、もしくは賭博にふけった人といった程度ではなかろうか。 だとすれば、この患者隔離撲滅政策の下ではありがちな話で、この自分もいつあのようにされるかわかったものではないと、恐怖の眼で見ていたのである。 中で死んだ人を運び出す話がまたすごい。死ぬのは主に冬であるから、死体は凍りついているのである。そのため、布団ぐるみ運び出さなければならない場合が多かったが、その布団ががっちり床に凍りついているので、かなてこでも用意してゆかないと引き剥がせなかったというのだ。また、「この中で死んでいるはずだが」と言われて小窓から覗いてみるが、布団の中にそれらしい死体はない。周囲にもない。 かわるがわる覗いてみるうち、あれではないかというものがあって、そこを見ると、片隅にうすぼんやりと白い塊がある。そこで扉を開け、勇(ゆう)を鼓(こ)して中へ入り、よくよく見るとそれが死体で、うずくまったままそこでこときれ、びっしり霜をまとっていたというのである。まさに冷蔵庫の冷凍室の寒さである。 *もの食わぬ囚人死んだか息があるか棒を差し入れ小突きみし話 *獄死せる18人の怨み今にこもりておりて落ちる山蛭(やまひる) 2番目の歌は戦後の1965年になって作ったものだが、「18人」というのも正確な数字ではない。 戦後、患者にも公民権が与えられ、自由に口がきけるようになった1947年の8月、「人権闘争」と呼ばれる大運動がこの園に起こった。この運動は「特別病室事件」とも呼ばれ、このときに特別病室の実態が大きく報道され、白日のもとにさらされたのである。同時に厚生省や国会による調査団が現地に派遣された。その調査結果を踏まえ、同年11月6日の衆議院厚生委員会で厚生大臣および東龍太郎医務局長が答弁した内容では、特別病室に監禁された人数は92人、「うち14人が監禁中又は出室当日に死亡し、監禁と死亡との間に密接な関係があると厚生省が認めた者は計16人に上る」となっている。2001年5月11日に出た「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟における熊本地方裁判所の判決文も、これを踏襲している。 ここに挙げられた死者数は、人権闘争のさいに運動の実行委員が出した資料に基づくものだが、あわただしい中で作成されたゆえに事実誤認も含むのである。 それとは別に、私たち患者の間ではそのころ「18人」という数字が言い習わされており、私はそれを歌に詠み込んだのである。また、人権闘争時に厚生大臣あてに9月に出された要求書では、死亡者22人となっており、この数字が最も一般的に使われているようだ。私も後にこれを歌に使ったこともあるが・正確さについては五十歩百歩であろう。もともと患者を収監するさいの公式書類も杜撰であるうえに、全国の他施設から送致されてきた収監者については、楽泉園の人々はほとんど知らないのだから、真実の数字を知ることはもはや困難と思われる。 楽泉園の患者がここへ入れられた場合は、友人か五日会(患者自治会の前身)でもらい下げに奔走するので、死ぬまで入れておかれた人はなかったようだ(入れられたその夜に脳卒中か何かで亡くなった人が1人いたが。)だが、他施設から送致された人は、1ケ月ごとに出され、入浴させられ、頭髪を刈られたあと、再び収監されてしまうのである。懲戒検束規定に「監禁は1ヶ月を超えてはならない」という決まりがあるので、1ケ月ごとに入浴に連れ出すのだ。ということは、死ぬまで入れておく意図があったと解してさしつかえないだろう。 ともあれ鈴木義夫も、特別病室で干し殺しにあってしまった。長く食事運びをした佐川修氏の話によると、義夫は1945年の夏ごろからひどく錯乱してしまって、房内にあるはずもない電話をかけ、高声でしゃべったり笑ったり泣いたりしていたとのことだ。無理もない。空腹状態がしばらく続くと、それだけでも気が変になるといわれる中、あのような孤独地獄、闇地獄の中でまともな神経でいられるはずはなく、錯乱はむしろ救いであっただろう。 彼は若かったがゆえに、一冬越せるはずはないといわれた特別病室で、1944年10月23日から46年1月4日まで生きつづけたのである。日数444日間、厳寒の冬を一度越し、二度目の冬を半ばまでしのいだことになる。 当時の望学校の校長は、入所前に教員の経験を持つ藤原時雄氏であった。この人は先に述べた五日会の会長でもあったから、新たな収監者があったか死者が出たさいのことだろう、特別病室へ行く用事があって中へ入っていったところ、ある房の食事差し入れ口から目だけを出した人間が(この窓は小さいので顔は出せない)、「藤原先生ではないですか」と言ったとのことである。驚いてその顔を見ると、鈴木義夫だった。 「なんだ、鈴木君じゃないか。なんでこんなところにいる」と尋ねると、「女の人を殺したということになっている」と言う。 「なっているといったって君、なんでそんなことした」と重ねて聞くと、「しませんよ。夜、町を歩いていたら(自転車に乗っていたともいう)、非常線が張られていて捕まって、お前がやったんだろうってここへ送られてきたんですよ」と言ったというのである。 藤原氏はさっそく分館長として恐れられていた加島正利(注8)に会い、あれはどういうことかとたずねたところ、「なんにも知らない。ただ、殺人嫌疑ということで送致されてきた。殺人嫌疑となればあそこへ入れておくほかはないので、入れておくだけだ」と答えたという。そこでまた藤原氏は特別病室へとって返した。無実なら出してやらなくてはならないと考えたからである。 「お前はほんとに殺人なんかやったのか」と義夫に聞くと、「そんなことやりませんよ」 ときっぱり言ったというのである。そこで、「ほんとだな」と念を押すと、少し間をおいて、「そんなことやらないと思うんだけれど、俺はときどきボーッとなることがある」と言ったというのである。 「あのときもう錯乱が始まっていたのかもしれない。それを思わないわけでもなかったが、ボーッとなることがあるでは、僕も責任が持てんでのう」とは、ずっとあとになって藤原時雄氏が私に言った言葉である。このようにして彼は鈴木義夫を見捨ててしまった。 今の人は、そのとき鈴木を送ってよこした警察へ問い合わせて、それがどういう事件であったか、鈴木義夫が疑われたいきさつはどうだったのかなぜ調べない、と言うかもしれない。それは当然の疑問であろうが、当時この療養所そのものが刑務所のような状態で、そんなことは考え及ばないことであった。刑務所と同様、信書の秘密もなく書簡は最大漏らさずといわないまでも、怪しいと思われた書簡は検閲されていたのである。そして、これは思想かんばしからざる患者と見なされれば、監禁室へぶち込むぞと脅かされたり、実際入れられた例もあるのである。そのようなことで万一特別病室に入れられたら、死ぬまで出られないと覚悟をせねばならないのであった。 そして、この特別病室のことは1人わが楽泉園の患者のみならず、全国に鳴り響いていて、「草津送りにするぞ」と言われれば、黙ってしまわなければならないのであった。要するにこの特別病室は、患者をして国の隔離撲滅政策に服せしめるにあたって、昔、封建地主が百姓から年貢を取り立てるために用意していた水牢と同じ役目を果たしていたのである。 また、鈴木を見捨てたのは藤原時雄氏だけではなく、親兄弟や縁者たちも彼を見捨てたのであった。彼は殺人嫌疑で草津へ送り返されたまま、その後何の調べも裁きも受けていないのである。殺人犯と断定されたわけではなく、あくまでも嫌疑をかけられただけで終始しているのである。それを放置したのだから親兄弟も彼を見捨てたのだと思わざるをえないのである。 なぜ見捨てたか。それはいうまでもなく、この病気の者が一家の中にいると知れると、生活が成り立たなくなってしまうからだ。それほどこの病者にたいする社会の差別は強かったのである。「らい予防法」はその差別感情を肯定してそのうえに成り立っていたのである。「らい予防法」が差別を作ったという説を立てる人もいるが、差別は遠い昔からあり、その差別に依拠して国は「らい予防法」を作ったのである。 この法律ができた後は社会の差別感情を一段と助長したことは間違いない、義夫の場合はその上に、殺人嫌疑がかかっていたのである。 鈴木義夫の死体は世話係と望学校同窓会員によって運び出され、型どおりの検屍が済んだあと、同窓会員の手で火葬された。私もそのとき卒業していたが、手伝いに来いとは言われなかった。本当に年の近い何人かの仲間が行ったのだろう。彼らの話だと、義夫は何ヶ月か髪を刈ってもらっていなかったらしく、髪の毛が後ろは肩までのび、前は目に届くほどだったという。体はひどくやせこけ、4貫目(15キロ)あるなしぐらいで、手足の爪はひどくのび、人間というよりはネコ科の動物の死骸のようだったという。哀れである。(18歳5ヶ月の命であった。) *我も知る鈴木義夫は痩せ縮み爪伸び伝説の鶴のごとかり 1947年の人権闘争の際、私は何人かと連れだって、初めて特別病室へ入ってみた。義夫が死んだ1946年以後、長期にわたる収監者はなく、特別病室は事実上すでに使われなくなっていた。 特別病室は見上げるほどのコンクリート塀でおおわれ、入り口に角材のかんぬきが差し込まれる扉があって、その上に掲げられた「特別病室」という看板がいかにも空々しく、つけもつけたりと思ったことをまず覚えている。 入ってすぐのところに畳を敷いた看守控室とおぼしきところがあったが、一度も使われた気配がなく、畳は朽ちており、合わせ目には破れた硝子窓から舞い込んだらしい雑木の種が発芽して、30センチほどに育ったものが何本かあった。そのすぐ隣にベッドを備えた治療室があったはずというが、私の記憶にはない。 そこから左へ行き(右だという人もいるが、私の記憶では左)、3尺角ほどの扉をくぐり、右へ回ってまた同じような扉をくぐったところが、監房へ行く通路であった。もう1つ扉をくぐった左側が監房で、食事を差し入れる窓が見えた。それは非常に低く、地面から30センチあるなしであった。これほど低くしたのは、囚人がたとえ床板をはがしても、床下へは入れないように工夫したとのことだ。 囚人を入れる扉は開けられていたが、中はひどく暗く、妖気がたちこめている感じで、壁に張られた鉄板にもむき出しのコンクリにも怨みの落書きがいっぱいに書いてあるという内部に入ってみる勇気は、私にはなかった。この落書きの筆記具は何だったかを調べると、釘でひっかいたような感じのものと、明らかに血液で書いたものがあったということだ。血液は故意に指先を傷つけ、その血で書いたのであろう。 通路にはコンクリが打ってなく、むき出しの土であった。次の扉をくぐって奥へ進むと、さっきの房とは別の側に窓があった。このように房ごとに窓の向きを変えたのは、囚人どうしで話ができないように設計されてあるとのことだ。通路は人が歩く真ん中だけが固くなっており、そこ以外には草や木がはえて、ひさしを越す高さのものさえあった。 その日は真夏であったが、3つ目の房へさしかかったころ、一緒に行った仲間が顔を見合わせたところ、誰も青くなっており、鳥肌を立てていたのでそこから引き返した。 2度目に特別病室へ行ったのは1953年の4月の初めだったと思う。 このとき、建物は完全に倒壊していて、営繕の職員が動員されたのか、残骸が敷地の周囲に捨てられ山と積まれていた。倒壊は自然倒壊だったのである。倒れた塀はと見ると、お粗末な造りで、鉄筋もほとんど入っておらず、木骨だったという。 このときにはまだ、特別病室へ行く道がどうにか残っていたのだ。 26ページ図の説明 草津特別病室,見取図。(各室房の入口扉は木格手)。(各室房は板床、一畳半、天井に2尺の採光窓)  図省略。図の説明終わり *きりぎしの崩れて獄趾へ続く道夕べは早く霜柱立つ *コンクリートは独房の型にのこりいて碍子(がいし)が白くくだけておりぬ 1965年ごろになると、もう特別病室跡には容易に行けなくなっていた。そのころ東京から来た友人が特別病室跡を見たいというので、連れていったことがある。 このときには道に雑木が生い茂り、人間が押し分けたぐらいでは進めないので、健康な友人に鎌や錠(なた)などを持って一緒に行ってもらい、ようやくたどりついた記憶がある。 また、1980年ごろ、熊本県の菊池恵楓園の早野孝義という人が神経痛のため、温泉のある楽泉園に一夏転地療養したことがあった。この早野氏が正門のあたりで、特別病室はどこにあったと聞いたところ、あそこだと指さされたが、それらしいところが見えない。その後、振り返り振り返り正門の坂を下ってきて、ここからだとよく見えたと指さされたので、そちらを見るとわずかに平らな場所がある。そこで日を改めて、同じ場所から平らな場所を目指して藪を踏み分けて上っていったが、しだいに上りが急になり、藪も深くなったので、とうとうあきらめて引き返したという話がある。 *独房のかたちに残れるコンクリートそこには届かぬ熊笹の根も *史蹟として保存すべきを獄趾は落葉松しげり荒れるにまかす そんなこともあって、栗生楽泉園創立50周年にあたる1982年にもとの道を掘り起こし、アスファルト舗装をして、片側に盲導索もつけたのである。その道は狭いので車は入れないが、正門の外に車を止めて歩いていけばすぐ行けるようになった。木の枝がかぶさってくることはないので、山蛭が落ちてくることもないと思う。 ところで、鈴木義夫は有罪であったのかどうか。 1942年に彼と同じ部屋にいた人が今も健在なので、その人の意見を聞いてみた(私は同じ舎にいたとはいいながら、部屋が違っていたことと、3歳年下だったために彼のことをよくは知らなかったのである)。 「とても人を刺し殺すなんてことはできないと思う。彼はここを出ていったとき、手が悪くなりはじめていて、過敏していると言っていたからね。衣服の上から人を刺し殺すほど、乞首(あいくち)とかナイフの柄をしっかり握っていることはできなかったと思う」 と彼は言下に言った。手が過敏しているとはこの病者独特の症状で、指などに知覚麻痺が及ぶ前、神経が肥厚(ひこう)している状態をいうのである。これが治まると麻樺が進んで、指も曲がり、握力も落ちるのである。 また、鈴木が逃走したいきさつについては、「ただのホームシックだねえ。秋が深まってきたら帰りたい帰りたいと言ってボサッとしてきた。あのころは、入園して1年たたないと帰省許可は出ない。だが、1年たったってあの顔じゃ許可は出ない。だから部屋の者みんなで、黙っていてやるから行ってこい、1週間ぐらいで帰ってくれば監禁室に入れられるようなことはないと言ってやったんだ」と言うのだった。 殺されたのは若い女性(女学生ともいう)で、路上で刺し殺されたという話だが、それは誰かの憶測もまじった話で、1944年の5月25日か、その数日前に起こったらしいその事件について、詳しく知る人はいなかったのである。 この人の話だと、鈴木義夫が入浴させてもらっているとき、短い言葉をかわしたことがあり、そのとき義夫は、「俺が捕まったときヒ首を持っていたと警察は言うんだが、これがそれだと見せられたことはない。肥後守(ひごのかみ)(鉛筆削り用の折りたたみナイフ)ぐらいは持っていたかもしれないが、ヒ首など俺は持っていない」と言ったということだ。 また、鈴木と半年間同居していた水沢定作氏によれば、義夫は1942年11月の末に逃走するころ、ひどく憔惇していたという。そのうえ逃走前には身の回りのものをすべて荷物として送り出し、押入れがからになっていた。そこで、「もう帰らない気か」と聞くと、いや、また帰ると言う。それではなんで荷物をみんな送るかと聞くと、「お母ちゃんが、洗ったり繕ったりするから、みんな送ってよこせと言うから」と答えたという。それでも水沢氏は、「この子はもう帰らない気だな」と思った、というのだ。 ところがこの「逃走するときひどく憔惇していた」という部分から人は想像をたくましくして、彼はここへ最初に入ってきたとき、すでにその犯罪を犯していたのではないかという噂が立った。そして犯人として捕まったが、ハンセン病患者であったため楽泉園へ送ってよこされた。送りつけられた楽泉園では、さしあたり普通患者として天城舎へ入れておいたが、所轄署から再び呼び出しがあって1942年11月末に送り返したのではないだろうか、ということになったのである。 そのうえ、彼が殺人を犯したのは、女学生が彼の病気を知ってひどい侮蔑の言葉を投げつけた、あるいは口を手で覆って横を向いた、そこでかっとなった義夫が鉛筆削りのナイフで脅しにかかったのだが、刺さりどころが悪くて女学生は死んでしまったという話が作り上げられた。 このように想像に想像を重ねて「事件」は作り上げられ、次のような話へと進んだ。つまり、彼の身柄を再び引き取った所轄署では、どこへ拘留したのかはわからないが、とにかく彼を拘留して取り調べを行っていた。そして1944年の10月に処分決定が出て、楽泉園の特別病室入りになったというのである。 この、憶測の上に成り立った噂話が『風雪の紋』が編集された1970年代後半にはまだ生きていて、それが同書の鈴木義夫を叙した部分に少々入り込んでしまった感がある。この『風雪の紋』の編集委員のひとりは私でもあるのだが、この説には矛盾が多く、とうてい信用するわけにはいかない。犯罪を犯した少年がらい者だったので、警察へ拘留せず、らい療養所送りにしたというのなら、東京の多磨全生園に送らなければならない。なぜなら彼は神奈川県の人で、神奈川の所轄区は多磨全生園であって楽泉園ではないからである(したがって、そもそも鈴木義夫が楽泉園に入ったのも自主入園ではなかったかと思う。たぶん湯之沢部落(注9)に縁者がいたのではないかと思われる)。 それに、逃走した1942年11月末から特別病室に入った44年10月23日まで彼を拘留しておいた場所はどこかということである。この時代、らい者は猛獣以上の危険動物、猛毒をふりまく者として扱われており、患者が密かに隠れているならいざ知らず、公(おおやけ)が患者の身柄を確保しておく場所は、らい療養所以外には日本中どこを探してもありえないと思うからである。 軍隊を例に挙げると、戦地で発病した兵はまず厳重隔離され、内地に後送されて軍の病院に送られ、別室を与えて隔離する。外には歩哨が立ち、患者が窓から外に出ないように見張る。配膳はするが下膳はせず、食器は流しに一定の分量がたまると持ち出して捨てていたというのである。この間、1日も早く療養所へ送るべく手続きが進行している。 軍隊がこうである以上、警察もこれに近い状態と考えるのが自然だろう。鈴木義夫の身柄を療養所以外のどこかで、1年11ヶ月もの間、確保していたとはとうてい考えられないのである。それに、単純な少年犯罪の処分決定に、これほどの長い年月を要したということも考えにくい、 であるから、彼は楽泉園を出たあと、自宅に潜んでいたと見るのが自然なのである。 では、事件はいつ起きたのか。当時、楽泉園に神奈川県の新聞を見た人がいて、5月23日から25日の間に起きた事件だと噂されていた。私もそれを覚えていて、この本の初版にそれを書いておいた。その後、鈴木義夫に関して新しい情報がいくつか寄せられたのでここに記すことにする。 第1は衆議院議員・瀬古由起子氏からのもので、「国会議員の立場で警察当局へ問い合わせ、真相を調べてみたいから鈴木義夫の本名と本籍地を知らせてほしい」というものだった。私はさっそく福祉課へお願いして、本名と本籍地を瀬古氏に知らせたのである。それから10日ほどたって、瀬古氏からお電話があった。神奈川県警に問い合わせてみたところ、裁判にかかった事件なら裁判所に記録があるだろうが、警察で終わった事件なら、警察では20年しか記録をとっておかないとのことであった。「鈴木さんは裁判にはかからなかった事件ですよね。だから警察の方からは調べられない。そういうことになったわ」というのがお電話の内容であった。 34ページ 図の説明 風呂蹄へりの娘 路上で刺殺さる という新聞記事の切り抜き。詳細は省略 図の説明終わり 第2は新日本歌人協会の代表幹事・碓田のぼる氏からのもので、「この『とがなくてしす』の鈴木義夫があまりにも哀れなので、ずっと気にかけていた。国会図書館へ行く機会があったので、ローカル新聞を見ていったところ、神奈川新聞昭和19年5月27日に次の記事があったので、沢田君が探している事件かとも思ってコピーをとったから、お送りする」という手紙が添えられ、上掲の新聞記事のコピーが同封されていたのであった。 記事はこれだけのものであったが、鈴木義夫にまつわる噂と符合する部分が多い。1942年11月当時、憔惇しきっていたと伝えられる彼とはおおよそ思えない出来事ではあるが、この事件の嫌疑に問違いないと私は考え、礼状を差し上げた。しかしそうだとすると、容疑者が挙がった、または犯人が逮捕されたという記事が何日か後に出ているかもしれないと考えられる。あのころは人権など考慮されていないから、未成年でも本名で書かれているのではないかと意見を添えたところ、碓田氏はこれも考慮に入れてくれて、「沢田君の意見により、もう一度神奈川新聞を見たがそういう記事はなく、昭和19年7月27日付けで次の記事があったので、これもお送りする」と別のコピーを送ってくださった。 お手紙にはそうあっただけだが、この日付から4、5日先まで「容疑者挙がる」という記事はないかどうかも見てくれたに違いなく、それがあったとは書かれていなかった。おそらくなかったに違いない。 こうなると、さらにこの後に似たような事件があって、鈴木義夫が容疑者として挙げられた可能性もあるが、いずれにしろ当時、彼の郷里に物騒な事件が何件かあったことは問違いないようである。そのいずれかに鈴木義夫は巻き込まれたわけだが、警察の記録も残っていない今、それ以上の真相を探ることはほとんど無理に近いといわねばならないだろう。 歴史に「もしも」はないのが常識だが、この場合は「もしも」があってもよいと思う。1907年、日本で初めて「癩予防ニ関スル件」が帝国議会で審議されたとき、「そんなに伝染するのか」と質問する議員に対して、「そんなに伝染はしないが、伝染するということを理由にして取り締まるのだ」と政府要員が答えているからである。さほどの伝染力はないにもかかわらず、それを理由にして浮浪らい者を取り締まるということで、最初のらい予防法は成立したのである。 この精神がずっと貫かれてきたのであるが、1996年、国は初めてそのことの非を認め、長い間迷惑をかけた、とわびてらい予防法を撤廃した。この法さえなかったら、一歩踏み込んで「そんなにうつる病気ではない」と国が言ってくれていたら、と考えることは無理ではなかろうと思う。あの時点で国が正しい処置をとっていてくれたら、昭和年代にはよほど社会の差別感情も薄らいで、義夫が殺人嫌疑をかけられたときも、両親たちは「十分調べてくれ」と言えただろうと思うのである。そうすればかりに彼が有罪であったにしろ、あのような場所で干し殺しにかけられることはなかったはずである。 ところで、この文章の題名であるが、日本語の基本になっている48音を1字ずつ使って無常観を組み入れた「いろは歌」というものがある。いろはにほへと、のあれである。これはふつう、7字を1行に書いてゆくもので、7行めは5字になり、「ん」が残る。この「ん」もその横に置き、最下段を横に読むと「とかなくてしす」、「ん」となり、これは「咎(とが)なくて死す」という言葉を詠み込んだ暗号なのだそうである。 「いろは歌」は昔から弘法大師が作ったと伝えられているが、これほど巧みに自分の怨みを詠み込んであるということは、弘法大師の作ではあるまい。おそらく皇位継承をめぐってか、何かの争いに巻き込まれ、罪なくして幽閉された知識人が、長い長い時間を持て余して作ったものだろうという解説を聞いたことがあって、そのとき即座に私はこの特別病室と鈴木義夫のことを思い出したので、題名としたのである。 $$第1章注 $$$注1 楽泉園には開園の翌年(1933年)にすでに監禁所が設けられていた。これと区別するために「上の監禁室」と呼んだものである。 $$$注2 楽泉園内児童患者のための教育施設。もともと湯之沢部落(後出)にはコンウォール・リー女史によって早くから、部落患者児童のための「望小学校」(草津小学校分校として認定)が開設されていたが、楽泉園は教育施設を備えておらず、入所児童の教育問題は放置されていた。園内の教育施設はすべて患者自身の発意によって実施されたものである。1935年に患者の室谷政人が自室で授業をしたのを皮切りに、38年に室谷が邑久光明園に移るにあたって、教員歴五年の藤原時雄がそれをひきついだ。41年に湯之沢部落の解散が決定、それより早く「望小学校」が廃校されたが、その校舎が園内に解体移築され、藤原教室が「望」の一文字をもらい受けて「望学園」と称したのである(私は同級生などに聞きただしたところ、学園といった記憶はないというので学校とするのである。残念ながら、この看板を写した写真は今のところ見つかっていない)。園内に移されたため厚生省管轄となり、文部省管轄からは外れたので「小学校」の名前は用いられなかったが、3教室に雨天運動場、職員室を備えて、それまでの寺子屋から急に「学校」になった感があった。筆者と鈴木義夫はこの、改築なった望学園で机を並べたのである。 $$$注3 収監者の給食は一般には握り飯1個といわれてきた。だがこれは1947年の人権闘争実行委員会が出した資料が不備だったために起きた間違いで、事実は薄い木の箱に椀に盛った飯(麦に少量の米)を入れて日に2回給食していた2回目は昼で、朝の5割増しぐらいの量を入れたというが、そのすべてを合わせて握り飯1個程度だったのではないだろうか。 $$$注4 療養所では建物の建設から病棟での看護、野菜など食糧の生産まで、生きるために必要な仕事をすべて患者の手で行わせていた。これを患者作業といい、小額の賃金が支払われていた。 $$$注5 食事を入れるとき守衛はついてこず、食事運びの人だけが行ったとなると、通路に各房ごとに錠をかける扉があるはすだが、その錠はどうしたかという疑問が残る。1942年から43年にかけて食事運びをしていた各務実氏によれば、「入り口の大きな錠からしてパチッと止めておかず、ただおっつけただけで、引っ張れば開くようになっていた」という。そこで片手に持ったものを地に置き、錠をはずしてくぐって中に入ったということだ。また、囚人には木製の椀1個だけが支給されており、それを足元の小窓から差し出し、朝は味噌汁、昼は白湯を入れてもらうとのことだった。 $$$注6 施設と各舎の在住者をつなぐ連絡員で、患者作業の1つ。物品の支給、備品交換、また分館長の指示によって各舎への炭の配給、炭背負いなど奉仕作業の割り当てなどを担当していた。加島がこの係の任免を直接行うようになってからは、彼の意のままに動く「手兵」となっていた。 $$$注7 これと同じ1945年、鈴木義夫が特別病室から入浴のため連れ出され、入浴後髪を刈ってもらっているところに出くわし、言葉もかわしたという人がいたそうである。この話を初めて聞いたとき私は、白分の体験と比較して「嘘だろう」と思っていたのだが、よく聞いてみると事実と考えてもさしつかえない。 この話は45年の6月ごろから2年間ほど新聞配りをやった少年(むろん今では70近くになっている)がしてくれたもので、新聞は夕方四時すぎに分館に草津の新聞屋が持ってくるのであるが、彼は昼間取りに行ったというから、45年には配達が1日遅れになっていたのだと思う。その彼が新聞を取りに行くと、特別病室から出された人が分館の玄関の三和土(たたき)の椅子に座って頭を刈ってもらっていたというのである。その前を通らなければ新聞を取りに行けないので、こんにちはと声をかけて通ると、その人もこんにちはと言ったというのである。 本文に書いた佐川修氏の話だと、義夫は当時、相当に錯乱していたそうだから、そのことを聞くと、「いやあ、おとなしく椅子に座って刈ってもらっていたよ。何しろ首から頬から真っ白で、それが頭を刈ってもらったばかりだから、頭まで白くて、強い印象が残った」ということであった。 これはおそらく45年の6月か7月の話で、この時期に特別病室から入浴に出される長期収監者は鈴木義夫しかいないから、彼と考えてさしつかえない。そして、このとき以来彼は入浴させてもらわなかったのではないか。何しろ翌年1月4日に亡くなったときには、髪はぼうぼうとのびて人間の死体とは思えない姿になっていたというのだから。 $$$注8 この人は当時分館長と呼ばれて絶対権力を持っていたが、実際には看護長であったことが後になってわかった(分館長は太田という人であった)。特別病室が設置された年に看護長になったのだが、看護長といっても医療に携ったわけではなく、あくまで患者管理を業とする職種であったようである。後述する庶務課長・霜崎清の縁故者であったことから、この要職についたものと思われる。 $$$注9 草津には江戸年間より温泉による治療効果を期待してハンセン病患者が集まっていたが、彼らは明治に入って強制的に、町の東はずれの湯之沢一帯に移転させられた。その後宗教団体の援助なども得て湯之沢部落の人□は増えつづけ、1930年には、一時療養の浴客を含めるとゆうに千人を越す一大集団をなした。不十分な医療や生計の苦しさと紙一重ではあったが、活発な自治活動・相互扶助が展開され、1932年にはこの地区から町議会議員が誕生した。しかし日中戦争、第二次世界大戦へと向かう時代の暗転とともに、患者隔離撲滅政策が強化されると、このユニークな共同体も解散へと追い込まれ、患者集団は1932年11月に開設された楽泉園に吸収されていった。 $特別病室はなぜ造られたか $$特別病室はなぜ造られたか 今年(1997年)の年賀はがきの中に、私の知らない人からのものが混じっていた。宛て名には、私と、今はここにいない退職職員の名前が連記されてあった。そこで私は自分で見たあと、その職員に転送したのだったが、その人も心あたりのない人とのことだった。 そのはがきには、「ハンセン病患者のアウシュヴィッツとも言うべき特別病室を作り出した『らい予防法』が廃止されて、今年は特別めでたい新年をお迎えのことと思う」、というようなことが書いてあった。 このはがきに私は深く考えさせられた。あの特別病室地獄を目のあたりにしながら、これが、ナチが作ったユダヤ人抹殺のための殺人工場・アウシュヴィッツと同じ性格のものだというとらえ方をしたことはない。それはこの療養所へ身を置く者の身びいきでもあったろうか。あの中で死んだ人は18人と思っていたが、『風雪の紋』には22人とある。生きて出はしたものの、まったくの廃人になっていて、健康を取り戻すことなく、まもなく死んでしまった人も30人ぐらいいるようである。 特別病室が責め道具として患者の上にあったため、患者は法に基づくささやかな権利要求すらできずにただひたすら施設側のご機嫌をうかがい、虎の尾を踏む思いで、びくびくしながら暮らしてきたのであった。そのことを思うと、この特別病室は規模こそ小さいが、性格においてアウシュヴィッツと同じものと考えてもいいような気がしてくる。 そこで、「らい予防法」が廃止された今日、この特別病室を改めて記録しておく必要があると思うのである。 特別病室ができたのは1938年12月24日のことで、使われはじめたのはその翌年からである。入れられた人の総数は、47年の人権闘争時の資料では92人となっているが、正確にはわからない。前章に書いた鈴木義夫が死んだ46年以降、長期にわたる収監者はなく、事実上その年のうちに使われなくなり、翌47年の人権闘争終了時に、厚生省医務局長・東龍太郎氏が「今後使用しない」と言明したのである。 私は1980年ごろ、「らい予防法があるかぎり患者は奴隷だ」という趣旨の論文を読んだことがある。そして、これはいささかオーバーだと思った記憶がある。というのは、私は1941年に、まだいとけないといってよい数えの12歳でこの園に入っているのだが、そんな子どもの私の心にさえ、この特別病室は重くのしかかっていて、これを今後使わないと聞かされたとき、言い知れぬ解放感に浸り、あれは奴隷が解放されたときの思いに違いない、とあとになって認識しているからだ。 そんなわけで、「らい予防法」があるかぎり我々は奴隷だ、という趣旨の論文にひどく違和感を感じたのだが、この特別病室が機能を果たしていたとき、患者は完全に奴隷状態にあったといってよいと思う。 一例を挙げよう。これは『風雪の紋』にも載っている話である。1945年のある日(まだ戦争は終わっていなかった)、五日会の会長・藤原時雄氏が、松木という女性患者の住む場所があまりにも辺鄙(へんぴ)なので、もっとよいところに移してくれるように加島正利に頼みに行ったことがある。すると加島は、「自分としても考えてやったことだから我慢してくれ」と言った。 実はこの松木という人には、自分より病気の重い夫を残して軽快退所した過去があった。それが空襲で焼け出され、病気ではないが身体の不自由な父親を連れて、再入園しに来たのである。 このころまだ園では、患者ではない肉親を連れての入園を認めていた。だから入園を拒む理由はないのだが、病気の重い夫を残して軽快退園したのは不貞の行為だったとして、松木の再入園を拒んだ。しかし松木に「行くところがないのだから」と言われ、第二農園のむこうの家ならばよいとして、そこをあてがったのであった。 だがそこは、いかにも遠い。そのうえ、むかし園が買収したまま放ったらかしになっている農家で、人が住める状態ではない。それでも松木はやむなく寝たきりの父親を連れて、そこへ入ったのである。 その松木をもっと近いところへ引越させてやってくれ、というのが藤原氏の願いである。そこで加島の「俺なりに考えてやったことだから」という言葉に対して、「あれよりましな空家が園内にはあるではないか」と言い、さらに別の人の場合も付け足した。すると加島は「お前は職員に指図をする。いつの間にそんなに偉くなった」と言いざま、そばにあった書類を筒にして窓越しに藤原氏の頭をポカリと叩き、さらに「生意気だ、頭を冷やしてこい。今日のうちに入れてやる」と言ったというのである。 「頭を冷やしてこい」、「しばらく頭を冷やすか」は加島の口癖で、これこそ、特別病室へ入れてやるという意味なのである。藤原氏はえらいことになったと思いながら帰宅し、早いほうがよいと思い、家へは上がらずそのままとって返し、加島に、出すぎたことを言いました、以後気をつけますと謝罪して事なく済んだというのである。 五日会会長といえば、今の入園者自治会長である。その人が、「頭を冷やせ」の一言で縮み上がってしまい、何の抗弁もせず平謝りに謝ってしまうのである。他は推して知るべしであろう。この時代、誰もが、加島正利の逆鱗に触れたら最後、ときどき見かける特別病室の囚人のたどる道をたどるほかはないと覚悟して暮らしていたのである。 *たわやすくうつる病と思わねど慎しみ暮らしき特別病室を怖れ ところで、このような特別病室はなぜできたのか。詳しくは『風雪の紋』で見てもらうことにして、ここではざつとその成り立ちを説明しておく。 国は、さほど伝染力のないこの病気を強い伝染病であるかのようにして、収容所(療養所)へ浮浪らい者を狩り込んだため、伝染源とされる患者を建前として外へは出してはならないということになった。そのうえ収容所を設立するにあたっては、地域住民の反対運動にもあい、患者は外へ出さないようにするからと約束した手前もあった。人間社会ならどこにでもある窃盗や喧嘩ざたなども所内に起きる。そんな場合、伝染病であるから、その犯人を警察の留置所へ引き渡すわけにはゆかない。 そこで設立当初から、収容所の秩序維持のため、「不心得者」を懲罰する懲罰房が必要だったのである。 かくして、各園の園長に、これら患者を懲戒する警察権が与えられた。それは1916年のことで、内務省はその当時全国に5ヶ所あった連合府県立ハンセン病療養所へ、被救護者にたいする懲戒検東の権限規定(内務省令第六号)を通達したのである。15年後の「癩予防法」に「附則」として付け加えられる懲戒検束規定の、 前身というべきものである。 懲戒の内容は誼責(けんせき)、謹慎、減食、監禁の四つで、減食と監禁は併科してもよいとされた。ただし最初のうちは食事を2分の1以上減じてはいけないとし、監禁1週間を超えてはいけない、ということのようだったが、後に1ヶ月を超えてはならないと改められた(必要と認めた場合はさらに30日延長してもよいとなり、ついには無期限となる)。そしてこのときから、ハンセン病療養所には監禁室が造られるようになった。 このようにして大正期から昭和初年までハンセン病療養所は運営されるのであるが、1931年に「癩予防法」が大きく改められ、園長の患者懲戒検束規定もこのとき、予防法の「附則」として公布されるのである。このとき予防法はどのように改正されたかというと、それまで患者にしてこれを扶養すべき者がいない者(家族のわからない浮浪らい者)を収容し救護する、とあった条項を撤廃して、患者ならどんな立場の人でも収容できるように改正し、経費は国庫負担としたのである。 栗生楽泉園の設立は1932年であるから、ハンセン病療養所ならどこにでもある監禁室はすぐに造ってよい時代であるので、開設翌年の33年に、今のつつじ公園、四阿(あずまや)の位置に、園独自の監禁室が建てられたのである。 全国療養所の不心得患者を収容するための「特別病室」が楽泉園に建てられたのはその5年後38年12月のことであった。 なぜそんなものを必要としたのか。当局者は、そもそも31年の「癩予防法」改正時に、さらに強い所内の秩序維持手段を講じなければならない、と考えていたようである。そうした矢先の31年、大島青松園(香川)で、「ラジオ事件」というものが起きた。これは、所内患者の慰安にと篤志家が寄付してよこしたラジオを、施設側が集会所に設置はしたものの、患者に自由に使わせなかった。そこで、使わせないラジオなんか要らないと大勢の患者がこれを持ち出し、浜辺でぶち壊した事件である。この事件をきっかけにして、同園ではしばらくごたごたが続いた。それからほどなくして1933年、外島保養院(大阪)で、進歩派の患者たちが「日本プロレタリア癩者解放同盟」の結成をもくろんだとする「外島事件」が表面化した。この事件は今なお真相はわからないとされているが、同園の園長が「赤にかぶれた」患者十数名を園外追放したのである(外島園長は自由主義者であり、当事者たちとの合意の上で「追放処分」にしたのだともいわれている)。この事件は新聞にも書かれ、社会問題になった。 ついで1936年には長島愛生園(岡山)で、定員オーバーによる待遇悪化、患者作業賃のピンハネなどに抗議して患者らが作業スト、ハンストなどを起こす「長島愛生園事件」が起き、これも大きな社会問題となった。そしてこれらの事件の事後処理を検討するたび、これら騒動の首謀者を服役させる刑務所が必要ではないかとの意見がたかまっていったのである。長島愛生園事件後、国と施設側はにわかに具体化に乗り出した。そして設置場所に楽泉園が選ばれたというしだいなのである(なお、日本の植民地にされていた朝鮮の小鹿島更生園には,1935年にすでに重監房が造られていた。これを内地の療養所へ逆輸入した形である)。これがまことに大ざつぱではあるが、特別病室設立にいたる概略である。 国、施設のみならず、患者の収容を実行する側(県と警察)もそういうものを必要としていた。というのは、改正癩予防法によって家庭内に隠れている者、巷を俳徊するものをすべて療養所へ入れてしまおうとするとき、どこかの裏町にこの病者がたむろする場所があって、そこにボス的な患者がいて収容を妨げたり、療養所から逃げ出した患者をかくまったりされては、いつまでたってもらちがあかないから、療養所外にいてこのように癩予防法違反をやっている者はこれまでの監禁室以上の、いわば刑務所のようなものを造って入れる必要がある、とも考えたのである。 そんなわけで特別病室は造られた。 特別病室設置前夜の記録を見ると、「患者中特に不良なるもののため特別の施設を有する療養所を至急設置せられるよう要望す」(1936年・癩療養所所長会議における大島療養所所長・野島泰治の発言)とある。しかし新聞はもっと生々しく、「らい患者の刑務所/最近の犯罪激増に鑑みて/内務省で愈(いよい)よ設置の運び」(『中国民報』1936年11月10日付)などと書いている。ここで注意しなくてはならない点は、「刑務所」と新聞が言っている点だ。 刑務所というのはいうまでもなく、刑が確定した人にその罪を償わせると同時に、罪を犯すような心を刑期中に改めさせて社会へ送り出す設備でなければならないのである。だが、造られたものは刑務所ではなかった。重ねていうが、刑務所は受刑者の健康を管理し、一定期間服役させて罪を償わせ、その期間に改俊させて社会へ送り出す設備でなければならないのである。そこへいくとこの特別病室は、冷暗室にただ閉じ込めておいて食事を少量給するだけで、看守の点検もなければ朝の洗面も夜の消灯もない。もともと電球がないのだから消灯はあるはずがない。日に一度運動させるでもなく、ただただ干し殺しにかけているとしかいいようのない状態なのである。 1938年12月、特別病室はできあがった。構造や内容についてはすでに書いたので、ここでは略す。 しかし注意しておいていただきたいのは、高さ4メートルのコンクリ塀が巡らされていて、八房ある各房ごとに同じ高さのコンクリ塀があり、そこに取りつけられた3尺角の扉をくぐらないと次の房へは行けないという厳重さ。そのうえ通路の両側にある房はそれぞれ窓の向きが違っていて、中の者どうし話ができないように造られているという点だ。 懲戒検束規定には監禁は1ヶ月を超えてはならないとされているので、1ヶ月目に入浴に連れ出すのである。そして頭髪を刈り、再び特別病室へ入れるのである。 そのおり、看護長の加島正利が囚人に何か言ったそうだが、どういうことを言ったのか記録もないし、記憶している人もいない。このときつねづね彼がどういうことを言っていたかがおよそわかれば、この人は単に人間を痛めつけて、快感をあじわうサディズムの傾向があったのか、いや、ただただ冷酷に見下していただけだ、といった判断材料になると思うのだが、はっきりしないのである。ただ、どちらにしろ、収監者を更生させる意欲はなかったと思う。 司法当局が、国民の誰かにある犯罪の嫌疑をかけて逮捕し、取調べをして、起訴するにあたっては一件書類というものを必要とする。しかしながら、この特別病室収監者にはそういうものはなく、園長にゆだねられていた警察権で処断しているのである。ただし園長は判を押すだけで、実際にことを行う人は看護長・加島正利であった。他園の場合も似たようなもので、園長は「まあいいでしょう」といった程度。そうでもなかった園長は大いに自分の意志を働かせて、不心得患者を特別病室送りにしたのである。送りつけられたほうとしては、「逃走常習」とか「職員への反抗」とかいってもどの程度なのかよくわからないが、こちらの責任範囲ではないということで、気楽に入れておけただろうと思う。 ただ一人、懲戒検束規定によらず、特別病室に送られた例として、前橋刑務所に服役していた佐藤という人が、ハンセン病患者ではないかということで特別病室に送り込まれた例がある。この場合、楽泉園から専門医を派遣して本病であるか否か確かめることもなく、こちらへ連れてきて、診察もせずに入れてしまったようなのである。 というのは、この人は社会で犯罪を犯したのだから当然弁護士がいる。その弁護士は石井繁丸といって、戦後、衆議院に当選したり、前橋市の市長をやったりした人である。この石井氏が、佐藤が今どんなところで服役しているかようすを見にきた。施設では、特別病室へ石井氏を連れていって佐藤に会わせた。このとき石井氏が施設にどういうことを言ったかはわからないが、帰りに草津のあるところへ寄って、あの特別病室はひどい、ひどすぎる、と言って帰ったという話が残っている。 そんなことがあって、石井氏の口から特別病室の実態がもれてはまずいと思ったのか、佐藤は特別病室から釈放された(1941年6月15日から同年11月14日まで収監)。なぜ釈放されたかというと、石井氏につきそっていった園の職員(正規の弁護士が来たのだから、加島だけでなく医者も行ったのだと思う)が、ふだん使われていない治療室へ佐藤を連れ出して見たところ、これは患者ではないということになったらしいのである。彼は前橋刑務所で、なぜか眉毛が抜けた。その眉が特別病室収監中に、すっかり元通りになったのである。そんなわけでこの人の場合、よく知らない医者の憶測から生じてしまった手違いであったのだ。 彼は命拾いをした。もう少し遅ければ特別病室が冷凍室になって、彼もコチコチになったにちがいない。さらに彼は本病者ではなかったためもあってか、さほど衰弱もしなかったようである。 そして彼は天城舎4号室へ入った。前橋刑務所へ移す手続きをする間入れておくということらしかった。これは余談だが、彼は、特別病室は困るがこのまま天城舎にいるなら刑務所に行くよりは良いと思ったらしく、皆と同じように部屋当番をやり、毎朝カミソリで眉毛を剃って、眉毛なしの舎の者とつきあっていたのであった。 また、これも余談だが、そのとき私はこの舎の2号室にいて、私がやるべき庭掃除を彼にやってもらったりしていたのである。彼は153日間、まったく日の差し込まない特別病室にいたため真っ白な人間モヤシになっていて、「いいよ、いいよ、兄ちゃんは遊び盛りだから俺が掃いといてやるよ……」などと呑気そうに言っていた姿を今でも忘れないのである。 ところで私は、施設当局がある特定の患者を勝手に罪人と決め、特別病室へ入れ、冷酷無比に、ネコがネズミをなぶるようなやり方で無慈悲に見殺しにしていた心理の過程を考えてみたいと思うのだが、なかなかそこまで話がゆかない。造った目的と目的に沿ったどのような人を入れたか、というところまで話が至っていない。目的は、今ある監禁所へ入れた程度では懲りない逃走癖のある患者、園内で起こる騒動の首謀者、園外にあって収容を妨害する者、こういう人を入れてこれまで以上に強く戒めようと考えたに相違ないのだが。 この目的に沿って、熊本市本妙寺(日蓮宗の寺)近くにあった本妙寺部落(150人ほどいたといわれている)、これを文字どおり警察が襲って、患者80人あまりを検束し、トラックに乗せて菊池恵楓園へ運んだ。このうちの主だった者と、その女房子ども合わせて27名は草津送りになったのである。それは1949年7月16日のことである(急襲したのは9、1、11の3日間)。全員は特別病室に入りきらないので、女は普通舎、子どもは保育所へ入れ、男だけ9人を収監したのである。特別病室に入れる罪状は、すなおに療養所の収容命令に服さなかったということだが、これだけでは部落を急襲して一網打尽にする根拠が薄いと考えてか、詐欺行為をしている疑いがあるとか、もらい子殺しの噂があるなどと理由をつけ、一網打尽にしたのである。ただしこれは口実にすぎず、その目的が達せられた後に詐欺行為やもらい子殺しについて追及したようすはなく、本妙寺部落で一緒に暮らしていた健康者からの陳情もあって、秋までに全員釈放となったのである。その間、57日間であった。また1941年9月26日には、満八十山(みつるやそやま)夫妻が、岡山の邑久光明園から草津に送致された。この人については、三宅一志氏の『差別者のボクに捧げる1』(晩聲社・1978年)に、およそ次のようなことが書いてある。 四国の金毘羅善通寺その他、寺や観光地で人が集まるところには、らいの乞食がいっぱいいた。この人たちは悪いことをいっぱいやった。七人に伝染(うつ)せばこの病気は治るという迷信もあって、金を出さないと触るぞ、などといって参詣人を追い回したりもした。この乞食たちは河原に小屋がけをして集団で暮らしており、そのような部落はいくつもあった。それらの大親分のひとりが満八十山で、この人は香川の大島青松園へ入園したこともあり、同書に載っている斉木創氏の話には、ありとあらゆる法律に通じ、弁舌も巧みで、なかなかの知恵者だった、とある。 この人は、映写機だの治療器具だのを車に積んで犬に曳かせ、四国の各地を移動して皆に重宝がられる反面、大島青松園から逃走してくる患者を宿らせたりもしていた。このような満八十山の行動は、追い詰められた患者たちにとっては頼もしい親分だが、当局の側から見れば手のつけられない存在というわけで、このような者がいるから浮浪らい者を一掃できないということになり、大阪で盗んだ自転車を買ったことを理由に逮捕し、妻の境○○とともに特別病室送りにしたとある。 これだけでは少々臆に落ちない点がある。というのは、四国で活躍していた満八十山が、なぜ大阪で捕まったかということだ。そこで大島青松園へ問い合わせたところ、この人は1930年に一度青松園へ入り、その翌年逃走し、1934年に再度収容され、35年にこんどは園外追放処分になっているのである。だが、これだけではまだ邑久光明園から来た理由がわからない。 そこでなおよく『差別者のボクに捧げる1』を読んでみると、1938〜39年ごろ、四国の浮浪らい者をずいぶん狩り集めたが、大島も長島もいっぱいなので、四国で狩り集めた患者は主に邑久光明園へ入れた、とある。だが、その中には満八十山の名前はない。これだけの大親分なのだから、このとき入れれば名はありそうなものである。そこで私は岡山県邑久郡の光明園へ問い合わせてみた。すると1939年収容、翌40年に逃走しているとのことだ。となると、40年に逃走したあとは、大阪で暮らしていたことになる。そして41年9月に盗品の自転車を買った罪で逮捕され、いったん邑久光明園に入れられたが、光明園では前歴があるため受け取らず、草津送りにしたと推定して間違いないと思う。 満八十山の場合、1943年の3月まで533日間拘留され、ついに死ぬのである。「とがなくてしす」の鈴木義夫は444日であるから、これより約90日長い特別病室の最長在監記録なのである。 そのうえ妻の境○○は、実にこの内縁の夫の罪のため、390日ほど入れられた、とある。この人のその後の消息はわからない、と同書にはあるが、1942年暮れごろから45年秋ごろまで石楠花舎にいた境テイに違いあるまい。この人は、戦後47年の「特別病室事件」とも呼ばれた人権闘争のさい、ニュースカメラが回るなか、強いライトを浴びながら中のようすを証言した人でもある(1951年10月16日死亡。当時、川ヶ丘在住。やはり特別病室の後遺症のためか、早死にのようである)。 このころ、草津町のらい部落湯之沢は、不承不承ながら国と県が出した条件を呑んで解散した。本妙寺らい部落もその後、復興しなかった。そして全国にいくつかあった小さならい部落も、ほとんどこのころ消滅させられている。この患者狩り政策に、特別病室はその使命を遺憾なく発揮したといってよいであろう。 園内にいて騒動を起こす患者に対してどのように作用したかといえば、多磨全生園70年史『倶会一処』(くえいっしょ)(多磨全生園患者自治会著・一光社・1979年)に書かれている山井道太のことで語りつくせるといって過言ではあるまい。 山井道太は洗濯場の主任であった。洗濯作業は、年中水が流れる床を踏んでの作業である。そのため水の漏らない長靴を履いていないと仕事にならない。ところが作業員のほとんどは破れた長靴を履いている。そこで、新しい長靴を支給してくれと施設へかけあいに行った。時1941年の5月末、いよいよ物資不足になりはじめたころである。施設側は、長靴はないと言った。ところが倉庫にいっぱいしまってあるのを作業員の一人が見てしまった。そこで、あるではないかとまたかけあいに行き、出してくれなければ出してくれるまで仕事をしない、と言ってストライキをしたのである。 その数日後の朝、山井道太は寝込みを襲われ、手錠をかけられて白動車へ押し込められ、モルヒネ中毒者2名とともに草津送りにされた(その日は楽泉園の記録では6月5日だが、多磨全生園の『倶会一処」では6月6日となっている。このくいちがいは、楽泉園側が多磨から連絡を受けた日を入室日にしたため生じたらしい)。 その車を、うちの人を連れていくなら私も連れていけと、行く先がどんなところか知らない妻のキタノが追いかけたところ、ご希望ならどうぞとばかり、何の罪もない妻女まで入れてしまったのである。あきれたものである。 この年の7月10日すぎ、草津湯之沢の望学校移築のため、多磨全生園の患者大工が数人、楽泉園へ派遣され、山井道太夫婦のことを知り、加島正利のところへ出してやってくれと日参し、7月18日になって山井道太は出されたが、すでに廃人になっていて、まもなく(9月1日)死んでしまうのである。妻キタノも同時に出されたが、この人は、多磨全生園のみんながもっと庇ってくれればこんなことにならなかった、と憤慨し、邑久光明園へ転園しているのである。 以上のことで特別病室の成り立ちは理解できたと思うので、いよいよ、なぜあのように冷酷に運用していたかということの解明に移りたいと思う。 とはいうものの、そこに難しい理屈も背景もあるわけではない。当時、この病気に罹ったが最後、生きる意味はないというのが社会通念であり、常識であった。これこそが最大の理由であろうと私は思っている。 この常識は非常に根深いもので、戦後も戦後、1973年の『新日本歌人』誌に、「世間には生きる甲斐のないらいに罹って、なお生きている人もあるのだから」という文言の入った論文が載ったことがあるのである。『新日本歌人』といえば、民主的な歌人が多く入会していることで知られている短歌誌である。しかも執筆者は、戦前からプロレタリア短歌運動をやってきた人なのである。そのような人が1973年になってなお、こんなことを書けば患者を傷つけはしないかなど、いささかも考慮することなく書いてしまうのである。これは、「らいを病めば、もはや生きる甲斐はない」というのがいかに深く行き渡っていた常識であったかを知る証左であろう。 この人たちは、もはや生きている必要はない人たちなのだ。それを養ってやっているのだ。にもかかわらず、日ごろありがたいとも思わず、身のほどをわきまえず、つねに不満を内に宿し、職員の言うことをきかず刃向かったりする。その不届きさかげんは、少しばかり懲らしめただけでは足りない。 そこで特別病室へ入れて懲らしめるのである。凝らしめ、説諭し、改俊させ、更生させるわけではないのである。冷暗室に閉じ込められ、少量の食事を与えられた囚人は、たちまちのうちに見る影もなく竃(やつ)れてゆく。錯乱者も出る。錯乱とはいわないまでも、誰もかれも平常心ではなくなってゆく。 収監者が多く、1房に2人を収容していたとき、同室者が死亡したことを隠し、2人分の食事を食っていた例もあった。このような生き地獄を、見て見ぬふりのできる人は見て見ぬふりをする。係の人は冷酷に見過ごす。送りつけた他園の係の人は、ひどいところだという噂は聞くが、楽泉園へ身柄を託したのだから、その時点で責任は逃れたというものだ。そんなわけで、縊死者もいたようだが、22ともいわれる獄死者を出してしまったのである。 このように人の命を軽んじ、侮ることがなぜできたかといえば、この病者は生きている意味はないという思想に覆いつくされていたため、といって言いつくせると思うのである。そこへ、あの戦争時と重なって、国土浄化の思想が追加されたのである。 *「らい故のこの惨めさよ」と落書きありまさしくらいなる故の悔り *優秀なる日本を世界にひろめるが侵略思想にてらいは国辱 *生きる無駄はライ者自らが知るところ殺しやるは情けと言いし将校(注1)あり さらに、相手の立場に立って無責任な言い方をしてしまうと、モルヒネ中毒患者を最初に入れたために、特別病室看護方式、つまり少量の食事をあてがい、あとは放っとく型が始まったともいえる。何しろこの種の患者は、薬が切れてくると注射を要求して大声で暴れ、ガタガタ震え、そのへんにある薪でも包丁でも持って暴れ回るのである。それを取り鎮めるのは容易なことではない。そこで、鍵のかかる部屋へ入れて放ったらかしにしておくにこしたことはない、というのである。その点で、特別病室は絶好の地の利を得ていたのである。 $$第2章注 $$$注1 1944年ごろ、鹿児島県鹿屋航空隊佐官級将校が星塚敬愛園へ慰問に行き、患者に時局の講演をした。それにたいして患者代表が、こんな大事なときに病気をしていて申し訳ない、我々は早く死んだほうが国に奉公というものだという意味のお礼の言葉を述べ、これをその将校がまともにとり、爆弾を落として皆殺してやる、そのときは事前に連絡してやるから職員は避難していろと、園長の林文雄に言ったという記録が残っているという。 $昭和17年暴動未遂事件 $$昭和17年暴動未遂事件 あの特別病室は、患者たちにむかって真っ黒い魔の口を開けている存在であった。 その口へ吸い寄せられていく人間は、さながら屠所へ引かれる羊であったろうと思う。 ここに戦後、インテリ患者として生きた1人の人がいる。 この人は戦後、『高原」(栗生楽泉園機関誌、1946年創刊)の編集にも出たことのある詩人である。そしてこの人はかつてモルヒネ中毒で、特別病室へ入れられたことがある。このことはたいていの人が知っているので、名前を伏せる必要もないのだが、やはり伏せておく。この人が他園から送致されてきた1940年12月23日、特別病室へ行く人があるから手伝いに行くように、と婦長が看護手に指示した。そこで一人の若い看護手が行くことになった。当時、治療棟の受付作業をしていた1人の若い患者青年もついて行った。そのほか、施設からは看護長の加島正利、彼の「手兵」といわれていた世話係も何人か行ったと思われる。以下は、このとき看護手について行った元受付係の話である。 「行ってみると、扉を入ったすぐ左手にある治療室に、インテリを絵に描いたような色白な、痩せた背の高い若者が立っていた。着てきた背広なんかは脱がされて、袷(あわせ)に着替えさせられて、いかにも打ち萎(しお)れた格好であった。それで、『さあ』と促すと、煙草を一本吸わせてくれと言う。そこで誰かが火をつけてやると、2、3回うまそうに吹かす。そこで『じゃあぼつぼつ」と言うと、最後に一本注射を打ってくれと言う。むこうから送ってきたらしい職員がその人の持ち物を調べ、白い粉の入った小瓶を取り出し、注射器がないじゃないかと言うと、靴の中に隠してあると言う。そこで脱がせた靴を調べ、あったあったと注射器を取り出し、こっちの看護手がシャーレに白い粉をこぼし、水で溶いて打ってやった。するとにわかにシャンとして、背筋を伸ばし、たいへんお世話になりましたと言って、白分から3尺角のあのくぐり扉を開けて、さっさと歩いていったねえ」 この話を私に最近してくれた人は、特別病室に入れられる人ともなれば相当に打ち萎れているか、さもなければ、そこでまた一暴れするかもしれないと予想を立てて行ったのに、案外そうでもなかったので、長い年月の中でこの日の思い出を、このような気障(きざ)っぽいものに作り替えたのかもしれないが、今の若者に聞かせれば、かっこいいと言いそうな姿ではある。 それにしてもこの人の場合、自分でもこのモヒ中を抜かなければどうにもならないという自覚があったであろうし、これが抜ければ出してもらえる、という当てもあったであろうと思う。それにくらべて園内騒擾事件、職員への反抗、逃走常習などで入れられた人、もしくは裏町の患者部落、病人宿などで暮らしていて、生きんがために心ならずも悪の仲間に入っていた、という人の場合は、相当のショックであったに違いないと想像される。 私はある日(1941年だったと思う)、ぼろ倉庫の前を通りかかり、布団を出しにかかっている2人の作業員を見かけたことがある。 「何してるの……」私は寄っていった。「重監房へ入れる人があるから布団を持ってこいというからなあ」男の1人は答えた。「もっと良いのないの。これじゃあ可哀想だよ」 明らかに死者がつけたと思われる黄色い染みの目立つ敷布団と、綿が寄ってところどころ合わせになっている掛布団を見て、私はこう言った。そして、このときこう言ったことを私は長く誇りに感じているのである。 「良いのといったって、ぼろ倉庫の中にゃあこんなのしかないよ。布団倉庫から再生布団でも持っていったら、こんな良いの持ってくるなって加島さんに突き返されるんだよ」 このときの男たちの答えはこうであった。 だが、このとき私が抱いていた特別病室収監者への同情心は、特別病室をぶち壊してしまおうという暴動計画の発祥地とされる天城舎に身を置いていたために植えつけられたものにほかならないのである。 特別病室の悲惨さはなみたいていのものではない。 本書の第一章にあたる「とがなくてしす」はもともと、私が『高原』1997年2月号と3月号に掲載したものだが、ここで死んだ鈴木義夫について、彼は痩せこけて四貫目ほどになり、髪の毛は後ろは肩まで、前は目にかぶさるほどのび、長い間爪を切ってもらってなかったらしく手足の爪はのび、人間の死体というよりは、何かネコ科の動物の死骸を思わせた、と書いた。彼が最後にもがいたらしいようすをとどめた房内の模様を書けば、もつとすさまじいものになるはずだったが、それは控えたのであった。だがこれを読んだだけでも、一晩眠れなかったという人が出た。 そしてつい先日、そのことを、かつて義夫の死体を運び出しに行った人に語ったところ、私が見た房内の様子を書くのはやめておいたほうがいい、あの当時、誰も人の死を軽く見る時代であった、とりわけこの病者の命なんかものの数ではなかった、こっちも人の死によほど無神経になっていたが、あそこでは足が疎んだ。そこのところはあまり細かく書かず、想像に任すほうがいいと彼は言ったのである。人の死にかなり無神経になっている時代といいながら、あれほどの地獄が目の前に展開されながら、皆はただ腕をこまぬいていただけか、という問いがあるにちがいない。 ただ腕をこまぬいていただけではなかった。五日会(今の入園者自治会)レベルでは、楽泉園の患者が入れられそうになったとき、それはたいへん不名誉なことだし、そうとう身体にこたえることでもあるのだから、何とか入れないで勘弁してやってくれ、といった陳情、あるいはもらい下げをやっていた。これは案外馬鹿にならない行為で、実績も上げていたのだが、残念なことにはこれが他施設から送致されてきた人に及ぶことはなかった。 しかし、在園者一般のレベルでは、1942年に、この章の表題になっている特別病室ぶち壊し計画「昭和17年事件」が起きているのである。これは特別病室をぶち壊し、囚人を救い出した上で、火をつけてしまおうというものである。 ほんとうにそんなことがあったのかと疑うむきもあるが、実際に破壊道具をそろえ、焚きつけを用意して所定の場所へ集まり、かかれー、の合図を待っていたという証言が何人もの口から出ているので、この計画が決行寸前まで行ったことは疑う余地がない。当時このようなことは決死の覚悟がなければできないはずで、これあるがゆえに我々は全国の病友にたいして、顔向けができるといってよいのである。 さて、この事件はなぜ起きたか。何かのきっかけ、たとえば首謀者になった誰かが、たいしたことでもないのに加島正利から「頭を冷やしてくるか」と脅かされたり、あるいは首謀者の知り合いがそのような目にあったり、といったようなことがあったのではないかと古くからいわれているのだが、そういう形での首謀者と特別病室とのかかわりはなかったらしいのである。 そうではあるが、この特別病室の存在はたえず入園者の頭に、常にのしかかっていたのであった。何か許しがたい出来事があって、五日会なり分館なりに申し出てやろうかと思っても、つい特別病室が頭に浮かび、いったん向かいかけた足も戻ってしまうという塩梅で、あれがなければこんなことぐらいは言っていけるんだがなあ、といった思いが誰にもあり、ぶち壊す人はいないものかと囁く声もたえずあったようなのである。また、ときどき見かける特別病室の人たちへの同情の言葉も、血の気の多い若者たちへのアジテーションになっていたようでもある。 特別病室が竣工したのは1938年の12月24日で、初めて収監者を見たのは翌年の秋である。そして、その翌年の1940年には熊本の本妙寺らい部落が解散させられ、部落の主だった人9人が入れられるなど、特別病室の八房が満員になり、2人入れる房も出た。その翌年の41年にも四国や大阪地方、また東京の小さならい部落が衛生課や警察から小さなことで大きな言いがかりをつけて解散させられ、その中の悪質とみられた人は特別病室にぶち込まれたのである。そのため食事運びの口からも、入浴させられていたようすを見た人の口からも、そのみじめなようすが園内じゅうに広がったのである。 以下は特別病室にたいする在園者の感想や憤慨の言葉である(入れっ放しで放ったらかし、健康管理の運動もなく電気もない、といった嘆きは今までにもだいぶ書いているので、このさい省いてあるが……)。 「徳川時代の牢屋だって、どこか格子の1本が動くようになっていた。囚人はそれを動かしカタカタいわせ、ことによるとこれが外せるかな、逃げられるかな、などと思いながら1人慰められていたという。そんな思いやりが、あの重監房にあるかよ。ただただ干し殺しだぜ。食事を入れてやると中から痩せた細い指が出て、差し入れ口の上っ側をさぐるというんだなあ。そこに、さっき飯を入れるとき、いく粒かくっついて残っていはすまいかと思ってなあ」 「風呂へ入れられているのを見たかよう。痩せられるだけ痩せて、ヒョロヒョロで、湯船につかまっていても浮いてくるんだ。だから世話係が押さえてやってるんだ。 出てくるときは、みんな帯をもらってないから着物の前を手で押さえて、亡者のよむしろ うにふわりふわり出てくる。そして地べたに敷いた莚の上に座らされて、頭を刈ってもらって、それでこんどは、へたばってしまって動けなくなってしまった者を、担架に乗せて入れちゃうんだからなあ。ああまでしなくたっていいだろう」 「どんな悪党が入れられているかといえば、たいしたことはないんだぜ。逃走常習なんてえのはそんなに悪いことかい。おとなしくしていない人への見せしめじゃあないか。職員反抗だってそうだ。たいしたことはない。園内騒擾だってそうだ。たいしたことはねえのに奴らが勝手に悪いと決めつけてやっている。あれだって、おとなしく我慢していろ、という見せしめだ。それに、紙芝居をやっていた、水あめを売っていた、それだけで入れられたのがいる。こういうのは、すなおに収容に従わなかったということだろうが、そんなのが罪かよ」だいたいこういうものだが、これだけで十分、正義感に満ちた若者を行動に駆り立てるであろうと思うのである。 ところで、颪雪の紋」を編集するとき、戦前の園内生活をいろいろと調べたのであるが、そのさい、ありとあらゆるといっていいくらい多くの事柄に、長靴の配給がからんでいることに驚いたものだ。降雪から雪解けの時期まで約6ヶ月、当時は道も舗装されていないから長靴なしでは暮らせない。『風雪の紋』のこの17年暴動未遂事件に関する部分にも、長靴のことが書かれている。それは、不自由舎(失明者や、義足で生活する患者などが生活していた)の人が、「長靴がないので治療に行けない。1足の長靴をかわるがわるに履いて治療に行く塩梅だ。こんなぐあいだから、特別病室なんかぶっ壊して、長靴をもらえるようにしてもらいたい。それまで俺たちは、何日でも飯を食わずに我慢するから」と言って、この事件を応援したというものである。だが、これだけではよく意味がわからない。長靴がないからといって分館へ文句を言っても始まらんではないか、という気もするし、物資不足の折から、文句を言ってみても、なければどうにもならないじゃあないか、という気もする。だが、よく聞いてみるとそうではないのである。 患者は入園させられるとき、まず、施設から次のものを支給された。 敷布団 1 掛布団 2 枕 1 枕カバー 2 猿股 1 (女は腰巻) 1 メリャスの上下 1 袷 1 単(ひとえ) 1 はんてん 1 綿入れ半纏 1 木製のお膳 1 茶碗 1 汁椀 1 小皿 1 湯飲み茶碗 1 箸 1 ゴムの短靴 1 同じく長靴 1 である。これは年限を切って交換してくれるものでもあった。交換してもらうときには古(ふる)を返さねばならないし、古がないときは交換してもらえないのであった(猿股、腰巻は交換品がなくてもよい)。しかしこれがスムーズに行われたのは1940年ごろまでのことで、翌41年ともなれば、新患にこれらを全部支給できなかったのではないかと思う。交換ももちろんである。 だが、短靴も長靴も、施設としてぜんぜん入手できなかったということはなく、分館の窓口をとおして加島正利が、重要な患者作業、または奉仕作業(戦時下に始まったもので、患者作業と違って無報酬)を熱心にやった人などへ支給していたのである。となると、これはとうぜん平等にいっていないことになり、不公平だ、依(え)こ枯贔贋(ひいき)だということになり、加島がこれを患者支配の具に使っている、ということになるのである。 そして不自由者たちは、その長靴は患者作業をやる人にだけ出すのではなく、全員に支給すべきだ、と考える。そしてこの1942年9月ごろ、いかにも不公平が目立つ長靴と綿入れ半纏の支給があったらしいのである。そこでとうぜん新しいのがもらえるだろうと思っていた何人かが、妙義舎へ集まって不満を言い合った。こういうことで正面きって文句を言ってゆけないのは、あの監房があるからだ。というわけで、あの監房をぶち壊してしまおうと大いに盛り上がったようなのである。 だがそれはすぐ分館へ筒抜けになって、翌日何人かが分館へ呼ばれ、加島正利から、何をぶつぶつ言っている、この次にはお前達にも支給しようと思っているところだ、などと言われておさまってしまったようなのだ。ところがこんどはその話が、何日か間をおいて20歳前後の若者の間に飛び火し、独身男性寮の天城舎1号室に集まって監房ぶち壊し計画を練りはじめたというのである。この部屋には私の実兄・沢田二郎も、そのとき数えの19歳でいたのである。 ある日、それは10月の何日ごろであったか記憶はないが、その人たちが、「ちゃんとした連判状を作らなけりゃあ。連判状には血判を押させなければ」などと真剣な面持ちで言い、ひどく緊迫してきたときがあった。と見るうちに、その緊張がふっとゆるんだ。後の話と重ねてみると、このとき3号室にいた水沢定作氏あたりを中心にして、30代後半から40代へかけての分別ある何人かが、お前ら何を相談している、と割り込んだらしいのである。そこで事情を聞き、「そんなことはやめたほうがいい。たとえ監房は壊しても、あなたがたは捕まって処罰され、殺されてしまう。犬死にだ」と、まずは留めたらしいのである。これにたいして若者たちは、「何もやらないうちに捕まれば犬死にかもしれないが、壊せば犬死にということはないだろう」 と言い、今のままではどうにもならないじゃないか。この療養所は療養所なんてもんじゃない。病棟の看護から始まって、園を切り回すありとあらゆる作業は、患者が働かなければ1日も成り立たない。そのうえ炭背負い(注1)、薪上げ、道普請、温泉修理と毎日毎日奉仕作業に追い回され、座る暇もないくらいだ。これではよくなる病気だって悪くなる。不治の病といわれてはいても、療養所へ行けば少しは治療の道もあるかと期待をかけていたところもあるが、まったくの当てはずれというものだ。そこで、「ここは療養所じゃねえか」とばかり、患者作業や奉仕作業を怠けると分館に睨まれる。その次は監房が待っている。重監房があるかぎり、患者は今のこの境遇から逃れることはできない。だから俺たちは白分の身を捨てて、みんなが生きられる道を開く。古くは佐倉惣五郎、近くは肉弾三勇士、先の大戦末期における 神風特攻隊の若者たちのようにと決意のほどを諄々(じゅんじゅん)と述べたというのである。そこまで決意しているならば止める理由はない。むしろ応援しなくてはならない。 それでもまず待て。諸君らが重監房を壊したあと、あの若者らの行為も無理はないといって世間へ宣伝し、諸君らへの同情の目が向くようにもし、それを契機に今の実情を訴え、窮状打開を図る宣伝班を作るから、それまで待て、と言ったというのである。このときよりこの事件は、決起破壊班と宣伝班の2手に別れて発展したと、『風雪の紋』は書いている。 水沢氏らは信頼おける人から人へ呼びかけて、10月下旬に行われた五日会役員改選に若草舎(当時は新高(にいたか)舎といった)の村田力、春日舎の花井一夫、笠置舎の向井栄一の3人の同志を当選させることに成功した。この3人の役割は、この計画が相手にどの程度知られているかを探ると同時に、決起の日まで相手の動きを牽制し、探りを入れられるようなときは、はぐらかす役割である。このような陣容がそろうと、運動は思いがけぬ広がりを見せ、在園者の心をとらえていった。また計画も具体的になってゆき、常に仲間が集まって相談する場所も天城舎、春日舎、妙義舎の3つに別れた。そして総司令部を妙義舎に置く形になった。 具体的になった行動方針というのは、天城舎から重監房をぶち壊す破壊班を繰り出し、四病棟前土手下の犬走りに伏せる(今の2病棟前道路の力ーブ付近)。これとは別に春日舎から繰り出す人数は、営繕倉庫付近(3号棟西の西)に伏せ、重監房破壊班が正門の坂を登っていくのを見届けたら、喚声をあげて本館破壊にとりかかり、当直職員と守衛の関心をこちらに引きつけ、重監房破壊をやりとげさせる。本館を破壊し火をつけ、なお余力があったら職員官舎まで暴れ込むというのである。 ところで、この計画の総責任者にあたる人はいなかった。それはなぜかというと、幹部会を置き総責任者を置くと、事件後その人が槍玉にあげられて犠牲になるということを考え、そのような人は置かず、志は同じだからということで進めてきたというのだが、このころになるとやはり総責任者がいなくてはまとまりがつかないことが目立つようになり、川ヶ丘にいる中村利登治をかつぎ出そうではないか、という話が起こった。 この人は、解散させられた熊本の本妙寺らい部落で部落長をやっていた人で、金縁メガネをかけ、時計の金鎖を胸に光らせ、両義足で、世間を見下す格好でのっしのっし歩いている。何よりも本妙寺らい部落の部落長だったという経歴が良い。あの人を総責任者に迎えれば押さえになるだろう。そこで、中村は足が悪いから、負ぶってくることも考えて、3、4人の若者が説得に行ったというのである。すると彼は、「わしは本妙寺の患者部落を確固とした形態にし、療養所などには入れられまいとあらゆる努力をした。にもかかわらず、この園に収容されてしまった。その時点でわしの役割は終わったと思っている。いまさら再度官憲と闘う意志はない」と言って断った。そのため、結局この事件は総責任者なしで決行の日を迎えるのである。 「その日」が11月の何日であったのかは、『風雪の紋』を編集するときにも特定できなかった。ともあれ11月12日か13日、霙(みそれ)まじりの雨が降っていたその日の夕刻、破壊班は予定どおり四病棟前の土手下と営繕倉庫付近に潜んだ。かかれー、の合図は妙義舎横から天城舎の庭へ向けて懐中電灯を振るのである。これを見た天城舎庭の伝令は、200メートルほど西の分館前へ向けて、これまた懐中電灯を振るのである。これを待ち受ける伝令が分館前に出ていて、さっそく4病棟前の土手下へ走るのである。そしてこの手はずどおり、破壊道具と焚きつけを持って数人が繰り出し、配置についたのだが……。 かかれー、の合図はなく、ぜんぶ筒抜け。敵は態勢を整えて待っている模様。このまま進めば、何もやらないうちに全員逮捕間違いなし。ただちに撤退し、証拠になるようなものはすべて片付けよ……との指令が来たというのである。 なぜこうなったか。少し時間を巻き戻してみると、この日の夕食後、村田、花井、向井の三人は、5日会の主だった役員のところへそれぞれ出かけていった。今日のことがどの程度知られているか探ると同時に、動きを封じるためである。ところがこの3人は逆に軟禁されてしまったのである。この3人についてはそれぞれ別の評価もあるのだが、『風雪の紋』はこのように書いている。一方、妙義舎の本部では、ようすをうかがいに行った3人からの遣いがなかなか来ない。そのうえ、今日ここに集まってきた地区代表の中に思わぬ顔ぶれがあったり、緊張で震えがくるほどのところを、とんでもない悠長な質問があったりで、幹部たちはいつしか、暗い不吉な脅えに包まれていったのである(ここにいた幹部は誰だったか、あからさまに語られたこともあったのであろうが、関係者も乏しくなり、記録されることなく忘れ去られてしまったようである)。こうした場合の幹部の脅えは致命的である。そこへ向井、花井、村田、いずれかの遣いの者が駆け込んできて、相手はみんな知っている、知っているからには備えがあるはず、と報告したというのである。 ところで、この夜の記憶は私にない。なぜないのか。私自身、長い間不思議に感じていたのだが、昨年(2001年)、当時同室だった水田弘氏に、「そりゃあ、あんたはないよ。その時間、新聞配りをしていて舎にいなかったじゃないか」と言われ、合点がいったのである。だが、その前後のことはいくらか記憶している。 まず、何度か、「今夜は2号室まで使って相談するから、弘と2人でどこかへ遊びに行っていてもらいたい」と言われたことだ。水田弘氏は私より2歳年下で、この人には婦人舎に姉がいた。だが、そこへ子どもの2人が、遣いに行くならいざ知らず、遊びに行って時間をつぶしてくるというのは、いかにも相応しくないのである。 婦人舎にはよく男性患者が遊びに来ており、来合わせたそういう人から、今夜は舎で何かあるのかと聞かれるし、子どもは早く帰って寝ろ、ということになるのである。それでもそこへ一度行った記憶があるが、その次は行きやすい不白由舎へ行ったり、風呂へ入ったり出たりして時間をつぶし、もういいだろうと帰ってくると、舎の東側にも西側にも物陰に隠れるようにして見張りがいて、「まだ終わらない、もう少しどこかへ行っていられないか」と言われたりもした。 翌朝の記憶は非常に鮮明で、舎中が重っ苦しい空気に包まれ、誰もが押し黙り、もくもくと飯を食い、逃げるようにそれぞれの作業場へ向かったのを覚えている。また、たいへんよい秋晴れであったことも覚えている。私はどこかの舎のご飯取り(注2)をしていたのだったが、その舎の空飯器を炊事場へ返納し、学校へ行く途中、下地区の人が軒下に下げたり庭に並べたりして干してある大根が白く光っていたことも鮮明である。学校へ行くと3、4人の生徒が教室の窓下に蹲(うずくま)り、中のようすをうかがっているところであった。 その中の1人が私に寄ってきて、「いま、中でお前の兄貴が藤原校長にお説教されているところだ」と言ったのも覚えている。であるから、それは一大事が起ころうとした翌朝だっ たことに間違いないのである。 その日か、その翌日であったか、私の兄の病棟看護作業の相棒だった原子作三氏が、望学校の教師で青年団の団長もしていた大野宏氏ともう一人(誰だったか記憶していない)にはさまれるようにして、言い合いしているところを目撃している。 場所は病棟のどこかのあまり人目につかないところと記憶する。話の内容はわからなかったが、これは事件参加者への個別説得だなと、そのとき私は直感したのであった。そして原子氏が一方的にただ言われっぱなしではなく、しきりに言い返していたので、そのやりとりを私は次のように考えるのである。 「お国のこんな大事なときに、そんなことをやってただで済むと思いますか。大勢で壊して火をつけて回る。そんなことをすれば鎮圧に軍隊が来ますよ。撃ち殺されてしまいますよ」「殺されることを恐れてなんかいませんよ。第一、今じわじわ殺されているじゃありませんか。こんなに締め上げられていれば、誰だって病気を悪くして死にますよ。だから体が利く今のうちに、あんなものはぶち壊すんですよ」「だからそれが、何の計画性もない捨て鉢の行いで、自殺行為で、やってみたって何にもならないというんですよ。監房なんか壊したって、また造りゃあ同じじゃあないですか」 「そんなことはない。らい病だって人間、一寸の虫にも五分の魂、窮鼠猫を噛む。俺たちがやむにやまれず刃向かって、その結果やっつけられても、あれじゃあ無理ないと言ってくれる人たちもあるだろうし、今までいじめすぎたかなと相手も人間なら考えるだろうよ」こんなふうに想像してみるのである。 こんな大事件であったが、この事件の直接の処罰者はなかったといわれている。ただし、事件後、事件の宣伝班の責任者といってよい花井一夫氏が毎日、分館に呼ばれていて、窓下に首うなだれて立っていた姿があった。これを園内じゅうの皆がどうなることかとハラハラしながら見守っていたのを今も忘れないのである。というのは、それは加島正利にいろいろ調べられていたことに相違なく、その結果を皆は恐れていたのである。そのことも含めて考えるに、この計画は当時千人といわれた在園者の3分2ほどを巻き込んでいたため、首謀者の何人かを処罰すれば、かえって不満を内蔵させると施設側は見たもようで、こんな時局だから不満もあろうが辛抱してくれ、といったぐあいに懐柔に乗り出したのだというのである。 それもあるであろうが、藤原時雄氏が私の兄に、大野宏氏が原子作三氏にしたように、穏やかな有力患者が破壊行為に加わろうとした青年を個別に説得し、このような考えは二度と起こさないと誓わせたことも、犠牲者を出さなかった理由の一つと考えてもよいと思う。その後、原子氏は大野氏と親密な友達づきあいをしているのである。 これは余談だが、原子作三という人は東北出身とのことだったが、東北なまりの目立たないたいへんな優男(やさおとこ)であった。そして兄の沢田二郎の話だと、病棟の大掃除のときに便所の金隠しをはずしてきて、裏庭に柄つき雑巾をすすぐ木の箱を持ち出し、水を何杯も汲んでは内側にこびりついた糞尿汚れをこすり落とすという、人も嫌がる仕事を率先してやる真面目人間だったとのことだ。 ところで、捨て鉢な気分まじりだったにしろ、奴隷状態からの脱出に希望をかけた重監房焼き討ち事件は不発に終わり、不満は何ひとつ解決されないままで、そのうえ納得ができぬ物品支給は続発するのである。そこで新たな不満も湧くというものだが、もはやどうすることもできない。さらに無念に思うことの中に、中村利登治の逃走事件もある。彼は事件後まもなく姿が見えなくなったのである。人は逃走したのだというが、何となく、施設が追放処分にしたような気もする。だがこの件にかんしても、どうしたのだろうと囁き合うのみであった。 そうこうするうちに赤城舎の瀬村幸一という人が、特別病室へ入れられてしまった(1942年12月24日)。彼はこの事件に少し関係した人である。入れられた理由は、園外で誰かとやりとりをしていた手紙が分館に押さえられ、それが不穏であるとされ、不穏な行動はこれを準備しただけでも処罰する、とある懲戒検束規定によって処断されたのだという。だが、どこの誰とどんなやりとりをしていたのか、誰にもわからない。そのため、追放された中村利登治と文通していたのではないか、と噂する者が出た。このときにはすでに、中村利登治は追放されたものと決め込む雰囲気になっていた。そしてこうした解釈は、17年事件に積極的に参加しようとした人たちを脅えさせるのに十分であった。 患者作業に従事しながら勤労奉仕に追いまくられる日常は、戦局の悪化にともなって一段と強まっていった。それももはや、死力をつくしてやるほかはなかった。 やらなければならないならいっそのこと、と思ったかどうか、かつての不平不満をかなぐり捨て、園への忠誠を示すかのように、率先してそれらの仕事を目いっぱいやる者が出た。転向である。向井栄一氏もその1人で、彼はもともとそういう思想だったというのだが、模範を示すかのように炭1人で3俵背負い、山道を悠々と登り上げてくる姿は目を見張るものがあった。この人につい先日まで、これとは別の期待を寄せていたのである。こうしたことも不満を募らせる材料の1つで、戦後まで多くの人は不満を抱き続けたのである。 戦後の1947年8月、「特別病室事件」とも呼ばれた人権闘争が起こる。このときは大っぴらに患者大会を開き、そこで選出された要求貫徹実行委員によって運動が指導され、患者は全面的な勝利を勝ち取るのであるが、これは不発に終わった昭和17年事件のエネルギーがまだ残っていて、それが一気に爆発し、患者全体が火の玉になって運動を支え、勝利に導く原動力になったのである。そしてこのとき、厚生省医務局長東龍太郎氏に、特別病室は今後使用しないと約束させ、あのときの思いをやっと遂げた、とみんな言い合ったのである。これらの過去を思うとき、私は1942年11月12日か13日、霙まじりの雨の降る夜、四病棟前土手下と営繕倉庫付近に破壊道具を持って集まった若者のことを思うのである。彼らは決死の覚悟であった。そのことは今の若者にピンとこないであろうが、そのころの日本の若者は20歳になれば兵隊にとられ、進めといわれるところに進み、鉄砲の弾にあたって死ぬのを名誉なことと教え込まれていたのである。そして、誰もがそう思って死ねる日本男子になろうとし、子どものころの兵隊ごっこに始まって、大きくなるにつれてのさまざまの行動も、そのとき大陸で日本がやっていた戦争の1こま1こまになぞらえられていたのである。 死ねば靖国神社に神として祀られる。この病者の場合、靖国神社に祀られるとは思わなかったであろうが、骨は誰かが拾ってくれると思っている。そのうえ、こんな病気になって兵役免除になり、国のために死ぬことはできなくなったが、人のために死ぬ死に場所をここで得たと思っていたかもしれない。そして、特別病室の囚人を救い出し、建物へ火をつけるということに白分の生涯のすべてと全患者の運命を賭けて、これから突撃しようとしているのである。鍵は門扉の錠からしてきちんとしめてなく、引っぱれば開くようになっていることを知っていたであろう。問題は房の扉1つ。この錠をしめてある金具を引き抜けばよい。それには鋏(まさかり)のようなもので叩くより、柄の長い頑丈なバールでこじるほうがよい。であるから、大きなバールを持っていただろうと思う。 ここに集まった者はそんなに大勢ではなく、いてもせいぜい12、3人ではなかったろうか。焚きつけを入れた炭俵を濡れないように松の根方などへ寄せかけて庇い、全身の毛穴を収縮させ、骨も鳴るほどの武者震いに震えていたにちがいない。 かかれー、の合図があれば、ためらいなく走らなければならないのである。走り出せば別の班の行動も起こる。もはや引くに引けないのである。いやがうえにも緊張は高まったであろう。よくそこまで決心してくれた、と今でも頭が下がる思いなのである。 1947年の闘争のとき、患者大会で実行委員を募ったとき、それに応じて名乗り出はしたものの、この運動が負けたらどうしよう、負けと決まったそのときは、さっそく部屋へとって返し、すぐ首が吊れるようにと行李の上に細紐を用意していた人がいたという。実行委員長に選ばれた人は、自分がもし帰らないことがあって、所在がわからないようだったら、それは施設によってどうにかされたのだから、躊躇なくこの手紙を持って前橋へ行き、表書きの弁護士のところに駆け込めと、書類を細君に渡していたともいう。患者も公民権を得、共産党をはじめ外部団体から応援してもらえる1947年ですら、こうだったのである。それより5年前、患者に何の権利もなく、戦争の足手まとい、邪魔者とされていた時代なのである。心をこめて偲ぶべしではないだろうか。 $$第3章注 $$$注1 奉仕作業の主たるもの。園当局は1941年の物資統制令以後、ガソリン節約のため木炭運びにトラックを使用せず、患者にこれを運ばせた。約10キロの悪路を1人1俵から3俵の炭を背負い、ほとん1日がかりで運ぶことが、多いときは月5、6回にも及んだ。まさに地獄の労働であり、このため病を悪化させたり死亡した者もある。 $$$注2 患者作業の一つで、炊事場から給食を運ぶこと。 $中村利登治のこと $$中村利登治のこと 「17年暴動」が中止にならずに実行されたとなったら、大事件になるところであった。にもかかわらず、この事件では犠牲者が出なかったといわれている。 ところが、この年の12月の末になって、赤城舎にいた瀬村幸一という人が特別病室に入れられた。その理由は、園外の誰かとやりとりしていた手紙が押さえられたというものだった。瀬村幸一はひと冬特別病室に入れられ、拘留が解かれたあとは白根舎に入っている。しかしそこでの言動が悪かったのか、さらに火葬場の手前にあった監禁所へ数日入れられ、その後2年して邑久光明園へ転園しているのである。 瀬村幸一は誰かと交信していた手紙を押さえられ、危険な企てをしていると施設側に見なされたというが、その相手が誰かはわからない。ただ、その当時、手紙の相手は岡山の長島愛生園の誰か、または中村利登治だった、という噂があった。 中村利登治がかつて熊本の本妙寺らい部落の部落長を務めた人であり、昭和17年事件のとき、この運動に相応しい統括責任者がほしいということになって、彼を担ぎ出しに行ったが、中村がその誘いを断ったことは前章で述べた。そして、この暴動計画が未遂のまま終わってしまったあと、まもなく彼は姿を消すのである。なぜ姿を消したか理由はわからないが、施設の記録には逃走したとなっている。 当時、「昭和17年暴動事件」のことを口にすることはできなかった。またこの事件では、その晩のうちに、証拠になるようなものは全部片付けろということで、記録類はすべて燃やしたはずである。そのため、事件のことは口から口へ伝えるだけになってしまったのだが、この事件にも犠牲者はあった、中村利登治、瀬村幸一がそれではないか、という解釈も多少はあったのである。 そんなわけで『風雪の紋』では、1942年11月逃走、となっている中村利登治のその後の消息がわからないところから、施設は中村利登治の存在自体を危険と見なし、追放処分にしたのかもしれない、と書いた。だが、『風雪の紋』を編集したときには、読まなくてはならない資料もたくさんあり、成文化しなくてはならない事柄もたくさんあり、それを取捨選択しなければならず多忙を極めたため、各園に中村利登治の消息を問い合わせる時間的余裕がなかった、ということもいえる(注1)。 このたび「昭和17年暴動事件」を書くにあたって、ややゆとりがあるので1942年11月以降、こういう人がそちらへ入園した記録はないかと菊池恵楓園(熊本)、大島青松園(香川)、邑久光明園(岡山県)、長島愛生園(岡山)、多磨全生園(東京)へ問い合わせを出した。すると菊池恵楓園の自治会長川岸渉氏より、次の消息が寄せられた。 中村利登治 大分県××郡××村 明治27年1月27日生まれ 大正14年10月19日菊池恵楓園入園 昭和2年5月21日逃走 昭和19年5月12日菊池恵楓園入園 昭和19年5月28日逃走 私はかねてより、利登治は恵楓園を逃走した経歴があるのではないかと思っていたが、果たせるかなであった。彼はここを逃走したあと本妙寺らい部落に住み、部落長もやり、部落が解散させられたあと草津送りになり、特別病室へ拘留されたという次第だ。 拘留が解かれたあと、利登治は川ヶ丘の大井舎にいた。そして17年事件の巻き添えをくったとしか思えない消え方をしたのである。彼が出ていった1942年暮れごろともなると、日本のどこを探しても、らい者が隠れ住むような場所は一掃されてしまって、両義足で手も悪い彼が療養所以外で暮らしてゆけるとはとうてい思えない。そんなわけで、私としては彼の足跡を追ってみたかった。 菊池恵楓園から1944年に彼を収容した記録が寄せられたが、その他の園からは「なし」であった。さらに東北新生園(宮城)、松丘保養園(青森)にも問い合わせるべきかとも思われるが、私としてはこの2園にいたとは思えなくなってきた。 なぜかというと、彼が楽泉園を出たのは自分の意志であったように、最近では思えるからである。 東北新生園や松丘保養園に身を寄せていた場合、そこでまた何らかの問題に巻き込まれれば、再び特別病室送りになるということを考えるはずである。それだけ彼はマークされていた、と考えなくてはならない。同じ意味で、多磨全生園にも身を寄せないだろう。このように考えてゆくと、彼は楽泉園を出たあと、まっすぐに九州に行ったのではないかと思われてくる。そして、そこにはまだ、彼が頼れる知人がいたと考えてもよいのではないかとも思えてきた。 しからば、なぜ20日足らずの間、菊池恵楓園に身を寄せたか、ということになるが、彼はもともと九州の人だから、恵楓園には多くの知り合いがいただろうと思われる。それらの人にお別れに行ったのではないだろうか。 なぜそんな想像をするかというと、彼が死んだのは終戦直前だか直後だかで、樺太から引き揚げてくる船に乗っていたところ、その船が触雷か魚雷攻撃を受けて沈没したと聞くからである。この消息を私に伝えてくれた人は、本妙寺らい部落で彼と同時期に暮らしていた経験のある人で、今も楽泉園に健在でいる。いいかげんなことを言う人ではない。利登治が樺太からの引き揚げ船の沈没で死んだということは信用していいと思う。 そこで、これを手がかりにして彼の足取りを追ってみると、菊池恵楓園へ行って知人に会い、これから自分は樺太へ行くと挨拶し、そこを出てまっすぐに樺太へ行ったのだと思われる。ちょうど樺太がこれから春に向かう5月末のことである。なぜ樺太へ行ったかはわからないが、知人が先に行っていて呼んだのだろうと思う。 右の判断は、私の単なる独断と思われるかもしれないが、多少の根拠はある。それは、彼が隔離撲滅政策時代の療養所にはとうてい収まらない人柄に思えるからだ。 私は利登治に声をかけられて、話をしたことがある。それは1942年の晩春の夕暮れだったと思う。 私は望学校の庭で、友だち何人かとテニスをやっていた。そこへ通りかかった彼が2、3歩歩み寄り、話しかけたのである。その言葉をすべて覚えているわけではないが、次のような片言を数語記憶しているのである。 ーー夕暮れになってもう寒いのだから、部屋に入れ。身体に悪い。そしてお前たちは勉強をしろ。こんな病気になって勉強しても何にもならないと考えているかもしれないが、それは違う。この病気の治る薬が出てくるかもしれない。たとえそんなことはなくとも、勉強をしなくてはいかん。ーー このときの、このような彼の言葉を、私は不思議に忘れないのである。 当時児童患者に、こんな病気になって、勉強なんかして何になる、と言った大人はいても、たとえ末はどうあろうと、いま勉強しておかなければだめだ、と言った人はいなかった。それゆえに、彼は隔離の施設内で朽ちる人ではない、と今にして思うのである。 しかし、中村利登治は追放されたのだという認識は、そうとう広く行き渡っている。現に、この章のもととなった文章を『高原』に載せるときも、編集会議のあとで編集委員のひとりが訪ねてこられ、「中村利登治は追放されたのだ。それに間違いはない。であるから、あれがゲラ刷りになってきたとき、訂正すべきではないか」と忠告めいた申し入れを受けたぐらいである。 しかしながら、患者を療養所から社会へ追放するということは、まことに筋が通らない。らい患者を健康社会の中に置かず、療養所へ狩り込むというのは、この患者が害毒(らい菌)を健康者にばらまくのを防ぐために療養所へ収容し、生涯出さないようにするというのがその趣旨である。その政策の下に患者を収容するわけだが、収容された患者がその政策に甘んじ、すなおに療養所にいるとは限らない。逃走する者もあれば、不埒な行いに走る者もある。そこでそれら不逞の患者たちを懲らしめる設備を造った。それでも懲りない者は、著しく筋の通らないことではあるが、追放処分にした。しかし、その追放処分はよい結果を生まなかった。彼らは全国の患者の溜まり場へもぐり込み、そこの患者をそそのかして、こんどは収容を妨げにかかるのである。であるから、そうした患者を所内にも置かず、社会へも出さないための設備として、刑務所的監房なるものを考案し、そこへ閉じ込めておくという目的で楽泉園に特別病室を造ったのである。であるから、この重監房設置後、患者の追放というものはなくなった。そのかわり、「草津送り」という言葉が生まれた。と、私は見る。 であるから、中村利登治は自分の意志で出ていったと私は解釈するのだが、そうではない、追放されたのだという思い込みは、当時を知る人の中にそうとう根深く残っているのである。特別病室設置後も追放処分があったとなると、これはもうまったく滅茶苦茶だが、滅茶苦茶なことを現にやってもきたのだから、言われても仕方がないとも思うが、現在の福祉室の職員に入園者名簿を調べてもらうと、楽泉園の場合、追放となっている人は1人もいないとのことだ。中村利登治はその名の上に「逃走」と記されているという。 1942年当時、将来、このらい患者隔離撲滅政策が批判され、入園者名簿を見せろと言われる時代がくるなどと考えていたとは思われない。であるから、追放したのなら追放と、率直に書いておくだろうと私は想像する。 もっと確かな証拠はないか、私はあれこれ頭を巡らしてみた。そして、はっと気がついた。それは加藤重夫氏の存在である。この人は中村利登治が暮らしていた川ヶ丘の大井舎の裏にあたる長良舎に居住する人である。ことによると、中村利登治が出ていったころもそこにいたのではないかと思い、聞いてみた。 「ああ、いたよ。俺はよく知っているよ。だいいち俺が送っていったんだから。あの人は目の見えないお内儀(かみ)さんがいてねえ、その人がたぶん、この昭和17年の夏ごろだったと思うんだけれど、死んじやった。目は見えなかったが、気管切開するほど病気は重くなかった(注2)が、身体が弱い人だった。 そのお内儀さんが死ぬと、彼は帰りたい帰りたいと言って、冬の初めごろに行くことになった。俺が草津の駅まで送っていったんだ。園の帳簿に追放となっているか、逃走となっているかそれは俺は知らんが、ちゃんと加島さんと話がついて、一時帰省の許可をとって行ったんだと思う。義足で、手も悪い人だったが、顔は何ともなかったから電車も乗せてくれたんじゃないかなあ。 そうそう、行ってしばらくたってから、落ち着き先から礼状をもらったよ。どこからだったかなあ。俺は手紙の類はとっとくたちなんだが、何しろ古い話だから、今はもうないと思うよ。どこからだったか覚えていないが、来たところへ帰ったんじゃないか。そうそう、そのはがきに何とかいう歌が書いてあったよ。落ちぶれて袖に涙が何とかというような、そんな短歌だったなあ」 これでわかった。利登治は加島正利に逃走を黙認してもらったのである。時あたかも不穏な時節であり、施設としては渡りに船であったかもしれないが、利登治は自分の意志で出ていったと見なしてさしつかえあるまい。来たところへ帰ったのではないかというが、本妙寺はすでにない。であるから、九州のどこかの知人宅へ身を寄せたのであろう。 蛇足かもしれないが、はがきにあったという「落ちぶれて袖に涙」云々の歌は、落ちぶれて袖に涙のかかるとき人の心の奥ぞ知らるるという歌で、昔からこのような場合よく使われる古歌である。また、特別病室の部屋のひとつに、この歌が落書きされていたともいう。さすれば利登治は、その部屋に幽閉されていたのかもしれない。 $$第4章注 $$$注1 この書き方だと、『風雪の紋』は私が成文化したように取られる向きもあるかと思うので、これが仕上がる過程を説明しておく。編集委員は鈴木幸次、加藤三郎、谺雄二、沢田五郎の四人で、私が目が見えないため中木和夫氏に書記についてもらった。このメンバーで相談し、資料集めを行い、昔の新聞記事等については県庁職員田村庄一氏に依頼して探してもらったりした。その他については私を除く4人で多磨全生園などへ出かけて探したりし、年表作りは主として鈴木、加藤の両氏があたった。 本文に収録しなければならない事柄については、中木和夫に大いに読んでもらいながら、私が口述して中木氏に下書きしておいてもらった。箭氏は多くの資料を自ら読み、私が下書きしておいたものも資料として扱い、一節一節彼が成文化してゆき、他のメンバーがこれを読み、問違いがあればそれを指摘して改め、できあがりとしたのである。であるから、中村利登治の行方について、このように解釈したのは4人の共同責任である。 $$$注2 気管にハンセン病特有の結節ができ呼吸困難となると、気管を切開してカニューレを挿入し、カニューレによって呼吸を維持させる措置がとられた。 $特別病室は殺人罪に問えなかったのか $$特別病室は殺人罪に問えなかったのか  ――昭和22年の人権闘争をめぐって  ハンセン病者の人権を著しく侵害していたらい予防法は、1996年4月より廃止された。これが廃止される過程において、この法律の不当性については非常にたくさんの論文が書かれた。そしてこれはなお、書き継がれるであろう。  すでに書かれた多くの論文を、及ぶかぎり私は読んだつもりである。そして、特別病室については、まだ書き足りていないという感想を得た。だが、これを書くのは楽泉園の人でなければならないと思われた。私はすでにこれについていくつかの文章を書いたのだが、さらに、この特別病室の責任者を殺人罪に問うことはできなかったのか、ということを書きたいと思う。 $$$1  この特別病室の実態が白日の下にさらされて世人が息を呑んだのは、1947年8月、栗生楽泉園の患者によって闘われた人権闘争のときである。この闘争を「特別病室事件」と呼ぶ人もあるのだが、実のところをいうと、患者がこの闘争に立ち上がった時点では、特別病室がどの程度不法な設備であったかなどを正確につかむには至らず、最初に掲げた要求項目の中に、特別病室問題は入っていなかった。  入ってはいないが、誰の頭の中にもこの問題がいちばん大きく位置を占めていて、施設交渉の2日目にこれが取り上げられると、取材に来ていた新聞記者によってさっそく新聞紙上に掲載され、一気に世人の注目を引くという成り行きになっていったのである。  このとき収監者はすで1人もいなかったが、特別病室の建物はまだあった。そのためこれを写真に撮り、冬期間飢え死にに近い状態で、コチコチに凍って、多くの死者が出たという記事に世人は息を呑み、施設当局も一言の抗弁もできなかったのである。  ところが、この闘争が始まって社会問題になってまもなく、厚生省からこの事件を調査する調査団が来園し、施設側をある程度勇気づけたとみえ8月30日夜、この調査団を迎えて実行委員会が行った公開陳情のさい、この特別病室の直接の責任者と患者側が考えてきた看護長・加島正利が、「自分は何も悪いことをしていない、園の職員として命令に服しただけだ」と居直った。そのため闘争実行委員会は、特別病室の責任者を殺人罪で告訴してくれるよう、自由法曹団所属の弁護士・小沢茂という人に依頼した。小沢弁護士はこの依頼を受け、さっそく検討に入ったと記録には書かれているのだが、告訴したという記録はないのである。  当時、園の倉庫にいっぱいあって隠匿物資といわれた物資を取引するために置いていた別途会計問題(後述)については、責任者を告訴した。しかし、これを罪に陥すことはなかなか困難との判断で、一年後に告訴を取り下げているのである。このとき特別病室の一件は提訴もされていなかった。そんなわけで、特別病室の責任を問うべき絶好のチャンスを、曖昧なままやりすごしてしまった感のあるこの昭和22年闘争を振り返りながら、この問題を追ってみたい。  その前に、特別病室の成り立ちと役割をもう一度復習しておきたい。  「ハンセン病は非常に醜い。そして、その醜い姿で巷を徘徊する。これをそのままにしておいては一等国の名に恥じる」ということで明治政府は収容所を造って患者の狩り込みに乗り出した。その根拠は、この病気が伝染するというところにあった。また、この病気は治らないとされてきた。治療の道はない。そこで収容所を造って患者を収容し、外出を禁止して、病気の感染源である患者が死に絶えるのを待って、この国からこの病気を駆逐しようと考えた。これが、らい患者隔離撲滅政策である。  この政策には少なくない無理が伴う。であるから、国の方針に従わない患者には罰を与えるといった、ある程度の強制手段が必要となってくるのである。  1909年12月、香川県の大島青松園で一部の患者が暴徒となり、職員官舎や本館を打ち壊す事件が起きた。翌年には多磨全生園の患者多数が園長の取り扱いを不服として、正門の扉を押し破り、東京府へ陳情しようとする事件が起きている。これらを鎮圧して首謀者を処罰しようとしても、対象者が伝染病者なのだから、一般社会の留置所、刑務所に頼むわけにはゆかない。そこで園長に、不心得者を懲罰する警察権を与え、懲罰房を造ってそれら患者を懲罰したのである。  それに必要な園長の懲戒権は、1931年に内務省令第六号として公布された。その内容は183ページにあるとおりである。これによれば、不心得患者を監禁室へ入れて懲罰する場合、  1週間を超えてはならないとあった。また、懲罰には減食の刑もあったが、これは給食の2分の1以上減じてはならないと定められていた。減食のほうはずっとそのまま推移するのだが、監禁のほうは1週間が1月になり、必要があればさらに1ヶ月追加してもよいということになり、ついには無制限になるのである。  1907年、日本に初めて「癩予防ニ関スル件」という名前でらい予防法が公布されるが(法律第11号)、この法律は患者の救護を目的とし、患者にして療養の道のない者、扶養する人のいない者、つまり浮浪らい者を収容することとしていた。だが、大正末から昭和にかけてその範囲が広がり、患者と名のつく者はすべて収容する方針へと変わった。そのためには法の改正が必要である。そこで1931年、大幅に法を改正して、名前も「癩予防法」と改め、救護を目的としていたものを予防目的とし、患者ならすべて収容する旨を公布するのである。  かくして家庭内に匿われていた患者も強制収容してゆくわけだが、こうなると一段と強い園内秩序策も講じておかなくてはならない。そこで、これまで内務省令にすぎなかった園長の懲戒権も癩予防法に移行され、附則として詳細な規定を定めるのである。  このように態勢を整え、強制収容に乗り出した結果、大島青松園、外島保養院、長島愛生園で入園患者が騒動をひき起こした(大島の場合、1月末から2月にかけてのできごとだから、態勢を整える直前というべきか)。このうち、外島の場合は患者の「赤化事件」だが、大島と長島の場合は患者に我慢を強いすぎたための不満の爆発である。にもかかわらず当局はこの事件から、患者弾圧機関の設置を急がなくてはならないという教訓を引き出し、1938年に楽泉園に特別病室を造ってしまうのである。  特別病室へ入れる対象者は、全国の療養所の中の不心得者で、従来の監禁所へ入れたぐらいでは懲りない者、および全国各所にあるらい患者の溜まり場で収容を妨げている首領株の患者である。最初の収監者は1939年9月30日、モルヒネ中毒患者5人であった。特別病室ができあがったのが前年の12月24日だから、約9ヶ月間は空き家のままだったことになる。この5人のモヒ中毒者のうち一人がその年の12月に縊死し、もう1人も翌年の3月に縊死、残る3人は4月に生きて出たと記録にある。  これだけでも、楽泉園にえらいものができた、という噂が全国の患者間に広がっていったであろうことは想像に難くない。その翌年、1940年、熊本の本妙寺らい部落が警察隊によって急襲され、部落は解散させられ、患者80数人は検束された形で菊池恵楓園に収容され、その中の主だった者とその家族27人は草津送りになり、うち9人が特別病室へ入れられ、57日間拘留されるのである。  またその翌年、多磨全生園から洗濯作業主任山井道太が送致され、42日間拘留ののち釈放されるが、まもなく死んでしまうという事件が起こる。そしてこれより、施設側の「草津送りにするぞ」の言葉は、ただの脅しではなく、実効を伴う言葉として患者に響くことになるのである。  また同じ年、四国と大阪で、患者間では重宝がられ、当局からは「こういう人がいるから収容がはかどらない」と目の敵にされていた、満(みつる)八十山(やそやま)という人が捕まって送致されてきた。この人は533日という最長在監記録を打ち立てたすえ、獄死する。しかもこの人の場合、内妻の境テイも同罪とされ、ぶち込まれるのである。テイは390日拘留され生きて出るが、その出かたというのはひどく衰弱したうえ、風邪をひくか何かしてまったく動かなくなったため死んだと見なされ、出されたという話なのである。山井道太の内妻もまた、同じように収監されている。ここまでくると、特別病室とは封建領主が農民を懲らしめるために造っていた水牢とまったく同じ役割を果たしていたといって過言ではない。  特別病室がこのように機能を働かせている間に、全国にいくつかあった大小さまざまのらい患者が隠れて暮らす、いわゆるらい部落が一掃されてしまった。また、これらが一掃されてゆく過程では、紙芝居をやって水飴を売っていただけと思われる人の何人かも、特別病室につながれたのである。これはいけにえといってよい。そして、全国の療養所の患者は「草津送りにするぞ」の言葉の前に沈黙した。ただし、ほとんど憎悪に近い不信感を胸の奥にたたみ込んで、である。  なお、私は、特別病室へ入れた者を当局は冷たく見殺しにしたと、「特別病室はなぜ造られたか」で書いたが、そうではなく殺意があったのではないか、と近ごろは思う。というのは、外島保養院患者の「外島事件」(1933年8月、51ページ参照)にあたって、何人かの患者を園外追放したところ、これはおかしいと新聞で叩かれた。伝染病で隔離されている患者を追放しては筋が通らないというのである。また、満八十山も大島青松園を追放になっている。これも公(おおやけ)にすれば筋が通らぬ話である。  当時としては、国体を覆す「赤」の患者を園内に置くことはできない。また、園内患者に不満をばらまく満八十山のような人間を置くこともできない。さりとて追放はできないということで、特別病室を造って入れたというのなら、この施設の目的は患者を更生させて出すということでなく、死ぬまで入れておくということになるのである。事実特別病室はそのような設備で、ここに入れられたらひと冬命がもつということは奇跡に近いありさまであったのである。  このように考えてみると、ここに入れたということは、殺す意図があったと見なされてもやむをえないと思う。 $$$2  1947年の人権闘争は、たまたまその年の8月に、日本共産党の中央委員で、関東地方労働組合協議会議長でもあった伊藤憲一という人が、痔の手術後の静養のため草津の温泉宿・大阪屋別館に投宿していた、ということから始まったとされている。そこへ同じく、日本共産党員で関東地方労働組合協議会の委員でもあった真穂(まさほ)七(ななつ)という人が、喘息の保養のためやってきた。この人は町内をよく歩き、町の共産党員などとも接触し、この先の栗生楽泉園という国立療養所の霜崎清という庶務課長らが、患者の頭をハネて、1億円くらい貯め込んだという噂を聞き込んできた。  伊藤憲一という人には『解放戦士別伝――南葛から南部へ』(医療図書出版社・1974年)という著書があり、その本には次のことが書いてある(なお、この本には楽泉園の患者が書いた「真相」という資料や写真が収録されるはずだったが、「出版の都合」により、残念ながら実現されなかった)。  真穂が楽泉園で霜崎という庶務課長が患者の頭をはねて当時の金で1億円の不正をやっているのを聞きこんだ[*121−2]ママできたので、楽泉園へのり込むことにした。いま群馬の常任県委員をして代議士候補者になっている山本俊伍君が、実家の大東館にいて細胞に属していた。みんなで何度かのりこんでいってビラをまいたり説得したりしたりしたが、娑婆の人間に対する不信感が強くてなかなか真相をしゃべらない。  「あんたたちが帰ってしまえば、われわれはいじめられるんだ」  といって口をとざす。  ちょうどこのとき、参議院議員群馬地方区の補欠選挙も行われていた。そこでこんどはこの選挙の共産党候補者・除村吉太郎の選挙運動のため、伊藤をはじめ5人ばかりの運動員が赤旗をかつぎ、メガホンを持って楽泉園へやってきたのである。それは1947年8月11日午後1時半ごろのことであった。入ってきたコースは正門からで、坂を下って三叉路で左の道へ入る。この道は不自由舎の浴場、楓の湯のところへ出てくるようになっている。ここから右へ折れて盲人会館のほうへ来る道は埋立地で、その縁が石垣になっているので、昔の道をたどることはできないが、もとはこのへんを通って今の治療棟、内科付近にあった売店前にくる道が幹線道路だったのである。治療棟前の車回しのあたりが広場になっていて、おそらく真穂七はここでメガホンを持って選挙演説をやりだしたのだと思う(このときはまだ療養所内での選挙運動は規制されていなかった)。だが彼らが目にしたのは、無関心に行き過ぎる患者と、ただもくもくと立ち働く患者青年の姿であった。  この日、栗生青年会(注1)は不自由舎道路の道普請、盲導線修理と、ボイラーの汽缶場前に集積してあった松根を細かく切る奉仕作業をやっていたのである。もくもくと働くこれら患者青年の姿は、飼いならされた羊として伊藤らの目に映ったかもしれない。そこで演説をやめて、あんた方は患者か、何をしているのだ、といったぐあいに、作業をする青年らに話しかけてきたのである。  患者はそんなことをしなくてもいいのではないか、職員がやるべきことではないか。職員は何をしている――というふうに何人かに声をかけていくうち、俺たちだってしたかぁないさ、だけどやらなきゃあ結局自分たちが困るんだ、といった返事が返ってくるようになり、やがて伊藤らを囲む人垣ができ、話に花が咲き、そこへ、患者自治会(五日会改め総和会)の会長・大和武夫が通りかかったというのである。彼も話の輪の中に入った。話は尽きない。そう長く手を休めているわけにもゆかない。そこで、時間を改めてやろうじゃないかと言うと、やろうやろう、俺たちの話をとっくり聞いてくれ、という者が出て話はそちらへ進み、大和は近くの常務委員(総和会の役員)を呼び集め、共産党を囲む公聴会のようなものを、その日の晩七時から中央会館でやることにし、すぐ横の分館へ行ってその手続きをし、その足で副会長・藤田武一のところへ向かったというのである。 $$$3  真穂七が町の噂として聞き込んできたのは、庶務課長・霜崎清らが患者の頭をハネて1億円ぐらい貯め込んだらしい、というものであった。いくらなんでもこれは話がでかすぎる。この噂の元は、楽泉園の倉庫に隠匿物資がいっぱいあり、これをもとに、霜崎清につながる人脈が適当に運用して儲けているらしい、ということと、軽症患者を奉仕作業という名のもとにこき使い、園外の事業所に送り込んだり、開墾などもやらせている。その場合施設は賃金や謝礼金を受け取るが、患者にはやらず、着服している、といったようなことだ。この点についても洗っておかなくてはならない。  園の会計には、国からもらう予算を使う会計と、慈善団体の寄付金や売店の収益金、自由地区建物を患者に売った金(注2)を入れたりする慰安会会計とがある。この2つの会計のほかに、いつのころからか別途会計を置いていた、というのである。人権闘争のとき、いつからそんなことをやっているのかと問うと、だいぶ以前に給食の飯器を更新するとき、廃棄処分にする古い飯器を売ってくれという人があるので売り、そこで得た金を積み立てたのがこの会計の始まりだということだった。そうだとすればそれはそもそも違法である。国の予算で買った施設の品は全部国のもので、それを更新して古いものを廃棄せず、誰かに売って金を得たとすれば、その金は大蔵省に返さなければならない金なのである。  別途会計の起こりはこういうことのようだが、それがどんどん太ってゆき、馬車2台、馬2頭もこの会計のものだったというから、終戦のころにはかなり大きいものになっていたと思われる。そんなとき、応召されていた園の運転手・黒岩弘一が、立川飛行場で終戦を迎えた。黒岩に対して航空隊の将校が、お前は療養所のお抱え運転手だったっけなぁ、ガソリンを好きなだけやるから持っていけ、自動車もやると言ったというのである。  そこで黒岩は小型自動車3台とドラム缶入りのガソリン50本をもらう。自動車2台は多磨全生園へ一時預け、楽泉園に、ガソリンは園が持っている木炭エンジンのトラックで取りに来るよう連絡した。当時、このトラックを運転したのは傷痍軍人の患者であった。この人が助手とともに急遽、立川飛行場へ赴き、飛行場の外に出してあったガソリンを積んで草津へ向かうが、一度にはそんなに運べない。もらったトラックは小さい。何日もかけて苦労して運んできたとのことだ。特に、長野原から草津へののぼり坂では積み荷が重く、木炭エンジンではなかなかのぼれない。木炭エンジンなので積み荷はガソリンなのに燃料には使えないで、泣き笑いの作業だったらしい。  霜崎は大いに喜び、これでトラックを走らせ、国立療養所の名前を巧く利用して、残務整理にあたっている軍にわたりをつけて、軍保管の軍手、軍足、地下足袋、軍服、南方派遣軍の作業服、外被といわれた外套、羽布団、大量のガーゼなどをいっぱいもらって、倉庫へ運び込んだのである。  そのほか、闘争のあとになってから皆に配給した羽二重や紅絹(もみ)という着物の裏地などもたくさんあったが、これらは軍からの保管転換ではなかったろうと思う。そうしたものは、代金を支払う場合もあったろうが、主として保管転換ということでただでもらってきて、別途会計扱いにしたのである。  国民は長い間、耐乏生活を強いられてきた後だ。倉庫に詰まれたこれらの品々を目にしたら、患者といわず職員といわず、のどから手が出るほど欲しい。この物資を園がどうしたかというと、患者作業員や職員に地下足袋・軍靴など多少は支給したようだが、馬車やトラックでまたどこかへ運び出し、売っているようである。これはあやしからんことだ。ある日、たくさんの地下足袋を運ばされた、黒岩ではないほうの運転手が、こんなにたくさんあるのだから一つぐらい良いだろうと1足運転席へ隠しておいたところ、運悪く霜崎の腹心の職員に見つけられてしまった。そして霜崎のところへ呼ばれ、お前は明日から来なくてもよいと、首を切られてしまう事件が起きた。  この1947年4月に職員組合は発足している。発足したばかりの職員組合が、この現実はに黙っていられないとばかり、「ひどいぜ、やってることがあくどいぜ」と患者自治会に通報してくれるようになった。  このころの患者自治会についても述べておこう。戦時中のあの非常事態に際して、やむをえなかったといえばやむをえないのだが、「五日会」は施設側に協力してきた形であった。そのため戦後、役員を一新しろという雰囲気が強まり、1946年4月からまったく新しい役員がとって替わった。そして訪れた言論の自由、民主主義の時代に合わせ、意欲的に民主化運動に乗り出していた。そのあらわれとして、ときどきみんなで炊事場へ行き、食料品の入荷状況を調べたり、倉庫が雨漏りしていないか、ねずみが駆け回っているようなことはないか、清潔に調理されているかなど調べたという。炊事場には給食主任の山口馬吉の妻が勤めていた。この人は癇が強く、このような患者がやってきたあと、いかにも忌々しそうに、床を掃く竹箒でご飯を炊く大釜の中をかき回していたという。  1947年度の役員改選にあたってもほぼ同じ顔ぶれが再選され、名称も「五日会」から「総和会」と改め、一段と積極的に患者の生活擁護と民主化に乗り出したのである。そして何より力を入れたのは、療養所入所患者にも生活保護法を適用してもらいたいという運動であった。すでに多磨全生園の患者は生活保護を受けているという情報も入っていた。だが栗生では、なかなからちがあかなかったのである。そんな矢先だから、園の幹部があこぎなことをやっている、という職員組合からの通報はありがたかったに違いない。  ところでこの6月に、給食主任の山口馬吉が米の統制違反で長野県の沓掛(くつかけ)署に捕まり、拘留される事件が起きた。これは新聞にも書かれて、霜崎清がもらい下げに行ったとのことである。山口馬吉といえば草津の闇市(この当時、こういうものがどこの町にもあった)へ、軍足だの地下足袋だのたくさんの物資を持ち込む人という噂が立っていた。そんなこともあって、総和会が申し入れたのか、新聞にも書かれたので施設側が積極的に打った手でもあったのか、山口馬吉が会館でこの事件の釈明をしたのである。  会館で何かの催しが行われる前の時間を利用したのであったか、私もそこにいた記憶がある。そして、山口の言ったことも断片ながら記憶しているのである。  ――今、米麦は簡単に手に入らない。そうとう広範囲に探し回らなければならない。しかも金ではダメという場合が多く、物を持っていくことが多い。それは危険な仕事で、今回はこんなことで済んだが、進駐軍に捕まると重労働の刑をくらって、沖縄へもっていかれることもある。そんなことまでして食糧を確保するのは皆のためだ。  それでも総和会常務委員だったか、誰だったかが質問に立って、あなたには悪い噂がある。であるから、これを契機にして謹んでもらいたい。それにあなたの奥さんは床を掃く竹箒で釜の中をかき回すというが、これをそのままにしておくのは、あなたにとってもどうかと思うので、このさい辞めさせてはどうか、と言った。すると馬吉はすなおに、はい辞めさせます、と言ったのである。 $$$4  さて、8月11日の午後である。  総和会会長・大和武夫は、その夜七時から中央会館において共産党を囲む公聴会をやる手続きをし、お知らせ原稿を出し(この前年から始まった園内放送設備工事は全区域に行き渡り、全戸までとはいかなかったが、自由地区にも1区域に2、3個のスピーカーが設置された)、副会長の藤田武一を訪ねていった。右の次第の了解を得ておくためである。藤田は聖公会の東側、第二栗生ヶ丘に居住する。道々、大和は藤田に、あんたは人が好いからすぐそんな約束をさせられてしまう、と言われはしまいかと思いながら行ったという。ところが案に相違して藤田は、  「そりゃあいい。こっちもいろいろやってきたんだが、一向にらちがあかん。共産党が引き受けてくれるというのなら、それにこしたことはないじゃないか」  と言ったという。  長い間の強い抑圧がとれたばかりの身であってみれば、「皆さんの境遇を聞こう、不満を聞こう」という共産党の申し出をこのように解釈してしまうのも無理ないというものだ。『風雪の紋』を編集した1978年に、昭和22年闘争(人権闘争)の実行委員に集まってもらって取材したおり、実行委員長を務めた藤田氏にそのへんの心境をたずねると、  「そりゃあそうだよ。わしゃあ、その場にいたわけじゃあないんだから。選挙運動に来た共産党がいろいろ聞くんで、今夜公聴会をやることになったと聞きゃあ、こりゃあ共産党が引き受けてくれるんだなぁと思うよ。だったらこの春からいろいろ問題になっていて、ちっともらちがあかないことを頼みゃあいいと思ったさぁ」  と言うのだった。さらに、  「ところが共産党は応援するだけだ。皆がやれという。それで患者大会を開いて実行委員を選出して、お前が実行委員長になれ、と言うんでわしがなった。会長の大和さんは総和会の一般業務があるから、実行委員長を兼務することはできまいというわけだ。だからわしがなったんだが、初めはびくびくもんだった。どんなことをされるかわからんのだから。そんなことはあるまいと思ったが、これまでうるさい患者を闇から闇へ葬ったこともあるなんて噂も聞いていたから。それで園側の四人に来てもらって、わしが要求事項を言って、暮らしが成り立つようにしてくれとまず言うと、こっちも努力しとると霜崎清が言う。するとそのとたん、会場いっぱいの患者の中から、嘘をつけ、と野次ったもんがおった。でかい声だったよ。そのとたん相手が痙攣したように震えたのがわかった。それでこの闘争は勝ったと思ったねぇ」  と言うのだった。  この先をこのまま続けたいところだが、8月11日へまた戻さなくてはならない。  その夜、知らせを聞いて集まってきた在園者はそんなに多くはなかった。そのうえ自治会からは、会長の大和が1人出席しただけだった。しかも大和は前の方にちょこちょこっと集まった人たちからやや離れて、ぽつんと1人かけているのである。それはいかにも、この集会は自治会には関係がない、というポーズをとっているようであった。それでいて集会の成り行きを見張る感じでもあった。  このときの中央会館は職員席と患者席の間に胸の高さの木柵があり、厳重に隔てられているのであった。職員席へは職員の入り口から入ってくるのである。この晩、町の共産党員をはじめ伊藤憲一らはどこから入ってきたかわからないが、木柵を隔てて患者と合い向かう形に座ったと思う。そして会場のこのありさまを見て奇異な感に打たれただろう。患者の話はどれもこれも囚徒の嘆きに聞こえたに違いない。そこでしばしば「大和さん、そんなところにいないでこっちへ寄って下さいよ」と、離れたところにいる大和に呼びかけ、このような状態にたいして自治会はどう対処してきたのか説明を求めた。それにたいして大和は口から泡を飛ばして熱弁し、自治会としても放っといたわけじゃあないと言うのだった。  その夜は結局そんなことで終わったのである。ただし共産党からは、皆さん大会を開いてみんなの声を汲み上げてやりなさいよ、共産党は支援を惜しまないから、と念入りに言って帰ったのだと思う。  それから3日。間をおいて8月15日の夜7時から、こんどは総和会が全在園者に呼びかけて患者大会を開くのである。たまたまこの日は参議院群馬地方区補欠選挙の投票日であった。そのため中央会館は投票所にあてられるので、6時すぎまで会場が空かない。であるから7時開催ということなのだが、そうでなくともこのころは園内じゅうの空き地という空き地を畑に耕し、ジャガイモやカボチャを作って食べ、給食よりむしろこちらが主食といった生活を余儀なくされていたのだから、明るいうちは畑仕事が忙しく、夜の会合には7時ごろからでないと人が集まってこないのである。会館には4人がけの椅子が4列並べられており、木柵を隔てたむこうの議員席と患者席で600人収容できるといわれていたが、職員席は百人ほどしか入れまいと思う狭さである。そしてこの15日の大会は、患者席がほぼ満員になったのであった。  まず最初に総和会会長大和武夫が立ち、最近の情勢を言い、園の民主化について自治会がやってきたことを述べ、今日の大会の目的を言い、参会者の自由発言を求めると、発言者がけっこうあって盛り上がったのだが、この大会で決議されたのは、  1、全患者の要求をまとめること。  2、良心的な職員と連絡を密にすること。  3、要求をとりまとめ共産党に頼むこと。  の3つ(要約)であった。  さっそく伊藤憲一が立ち、最初の2項は良いが、要求をとりまとめて共産党に頼むというのは違う。これは皆さんの運動なのだから皆さんがやるということでなければいけない。共産党は支援するだけだ、と言ったのである(注3)。そこでこの大会は、皆で患者大会の性格を学んだだけで終わった感じで、1日おいて17日の夜、同じ時間帯で2度目の大会を開くことになった。  17日に行われた第2回の患者大会はかなり問題を煮詰めることができたが、最終決定に至らず、19日に3度目の大会を開くことを決めて解散した。その19日、こんどは十分に討議し、翌20日、午前1時までかけて要求6項目を決めたのであった。  1、生活保護法ニ依ル扶助料ヲ支給セヨ(1人1ヶ月200円)  2、作業賃ハ現在額ノ培額(1人103円60銭)トシ、半日労働ハソノ半額ヲ値上ゲセヨ  3、半強制労働ヲ廃止セヨ  4、各種会計ヲ公表スルト共ニ園ノ運営委員会ヲ設置セヨ  5、患者ノ最低生活ヲ保障セヨ  6、不良職員ヲ追放セヨ  以上である。  これでお気づきだろうが、最も重要問題の特別病室のことは掲げられていない。要するにこの時点では、まだ患者側は特別病室の実態をつかむまでには至らなかったのである。そして、この運動を推進する実行委員26名を選出した。  委員長 藤田武一  副委員長 大和武夫  委員 (常務委員)富岡雄二 大場操 五十嵐正二 大木清太郎 平塚辰夫 青柳茂 保崎喜一 堀内光義  (一般有志)栗田勝一 臣木至 小川辰夫 中村文雄 渡辺新一郎 中尾充三 沼尻なお 川上とみえ 後藤ふさ 綿貫定一郎 宮田藤太郎 小林正治 門脇金治 大野利夫 上野秀男 川口良治  これが実行委員の氏名で、実行委員会の名前を「生活擁護・要求貫徹実行委員会」としたのだった。また大会終了後、真穂七が立って、「この特別病室は不当きわまるものである。こんなものを設置して不法監禁して患者を威圧し、黙らせ、当局はほしいままの運営をやってきた。こんなことが通ったのは、この療養所が社会の奥に隠されていたためだ。だがいまやこんなものは通用しない。第一我々や世間が通させはしない。だから皆さんは恐れることなく、自信をもって自らを解放するため立ち上がるがよい」と力強く演説をしたのである。 $$$5  態勢は整った。だが心配は残る。負けた場合、特別病室へぶち込まれて殺されはしないかという恐れだ。そのため実行委員会に進んで名乗りを上げた綿貫定一郎は、負けたと決まったときにはすぐ首が吊れるように、細引きを用意しておいた。実行委員長になった藤田武一は前橋の弁護士宛てに、「自分たちはやむにやまれずこういうことをするつもりだ。その場合、当局はどのような報復手段に出るかわからない。もしこの手紙が貴方の元へ届くことがあったら、そのときは私の身体が当局によってどうにかされたことを意味するのだから、そのときは新憲法に謳われている『何人も法の手続きを経ないで自由を奪われることはない』という精神に基づいてしかるべき手段をとってもらいたい」と手紙を書き、もし自分が帰宅せず1日以上消息がわからないときは、これを持って前橋へ行き、名宛の人に届けよと、細君に託しておいたというのだ。まさに佐倉惣五郎の心境である。  それでもまだ不安は残った。それはこの闘争を支える会員の結束力である。それを確かめるため、実行委員会が手分けして全員の署名をとることになった。私も路上で宮田藤太郎に呼び止められ、署名した記憶がある。印鑑を持っているかというので、無いと答えると、それでは拇印でもいいと言って印肉を差し出した。それに人差し指を押しあてて、いま書いた名の下に赤い印をつけると、  「ちゃんとした連判状を作らなければ。連判状には血判を押させなければ」  いつか聞いたこの言葉を再び聞く思いがした。  このときの患者数は920人である。このうち署名しなかった人が13人いたと記録にはある。百パーセントまでは至らなかったが、99パーセントの支持率である。  いよいよ戦闘開始である。その日は8月22日午前10時。会館の職員席へ園長・古見嘉一、医務課長・矢嶋良一、庶務課長・霜崎清、看護長・加島正利の四氏を迎え、木柵を隔てて実行委員が対峙し、その幕は切って落とされた。  交渉の経過は公開で、600人収容の椅子席は満席であったと記録にあるが、私の記憶ではいっぱい以上で、座れない人が玄関の三和土(たたき)や出口近く、また後ろのほうまでいっぱいだったと思う。そのうえ実行委員席の横に来賓席が設けられ、真穂七、山本俊五(草津町出身・共産党群馬県委員)他、4人の町の共産党員が控えていて最初から物々しい雰囲気だ。そうした中で交渉が始まるとこんどは激しい野次が飛びはじめ、あたかも人民裁判の様相を呈してきたのである。そこで急遽、青年会員に実行班の腕章を巻かせて会場整理にあたらせたのであった。私もその一員であった。そこでエピソードをひとつ。  実行班は2人組を作って行動することにしていた。私は桜井一二三という人と組んだ。私たちの後ろのほうで、たえまなく激しい野次をとばす男がいた。そこで二人で行って、静かにしてくれと頼んだ。するとしばらくの間静かになるのだが、すぐまた野次りはじめる。また行って頼むと、こんどは「うるさい」と言う。みんな静かにして経過を聞いているのだから、あんたも静かにして聞いていてくれと言うと、「俺だって交渉している」。交渉は実行委員に任せておけばいいと言うと、「任せておけない」。それではあなたも実行委員に立候補すべきだったのだが、もはや手遅れなのだから今は任せるほかはないのだと言うと、桜井にむかって「生意気だ、この交渉が終わったら東側の広場へ来い」と言う。行くから静かにしてくれ、と言うとこんどは静かになった。それから、行くときは二人で行かなければいけないよ、と桜井と話していたのだったが、済んだあと不自由な参加者を送り出したりなど私がしているうちに桜井は1人で行ったらしく、ややガランとなった会場へ顔を引きつらせて飛び込んできたのである。その顔を見れば彼が野次男に1発張られたことはすぐわかる。しまったと思い、この野郎とばかり私は駆け出した。  行ってみると大きな樅の木の横にその野次男がいて、3、4人の青年会員と怒鳴り合っている。そこへ「どうした、どうした」と実行委員の栗田勝一がやってきた。その栗田は、ふんふんとわけを聞くと、  「そりゃあいかん。そんなことで今仲間が喧嘩しているときではない。桜井君もおもしろくないだろうが、俺の顔を叩いて我慢しておいてくれ」  と言い、あの牛乳瓶の底のような厚いガラスの嵌ったメガネを外したのである。すると桜井は「すみません」と涙声になって平手でペシャンと叩いた。よろめくほど叩いてやれば栗田も格好がついたろうにとみんなは思ったのだったが、それはそれで終わった。  さて、この日の交渉は午前10時から午後7時まで続いたと記録にある。一般参加者はそれぞれ食事に行ったり、用を足しに行ったりすることはあったが、4人の施設幹部も実行委員も水を飲む、小用に立つ以外は休憩もせず続行したのであった。それは世の中が一変したこの時代の特徴を示してもいようが、抜き差しならぬ立場で向かい合っていたということである。そしてこの日、約束させたのは、生活保護法はただちに受けられるようにする、強制労働は園の方針でやってきたわけではないのでやめるようにする、作業賃の増額は努力するなどで、大きな成果を挙げたといえるのだが、わけても作業賃のピンハネをしてきたことを認めさせたことは大きな成果だったと思う。彼らは、ピンハネをしてきたと認めたのである。  二日目。同じ陣容で時間も同じ午前10時から再び対決するのだが、この日、毎日新聞中之条支局の関悦夫という記者が出席している(のちにこの人は単行本『特別病室』〈作家社・1950年〉を出版した)。その2日目のしょっぱな、「不良職員を懲戒免職にせよ」の事例として取り上げた特別病室の実態が、とつぜん大問題となって姿をあらわしたのである。  凍死、飢え死にといった塩梅に、つぎつぎ死体が運び出される。いったい何人死んだのか。書類はあるのか。あったら提出せよと迫るのにたいして、園長はじめ四人の幹部は何一つ返答できず、うつむいたままである。会場からは「殺人罪で告訴するぞ」「お前も1晩でもあそこへ入ってみろ」という罵声がしきりに飛ぶ。それでもまったく無言であった。そうなると患者のほうは見るに見かねるというか、同情心が湧くというか、議題を次に移したがる雰囲気が出てくるのである。藤田委員長はそれを制し、ともかくありったけの資料を出せと言い、それを承知させ、とくにこの特別病室に関する不良職員を免職させることを約束させつぎへ進んだ。  次は慰安会会計をはじめ各種の会計簿を公開する件である。これはそれほど緊迫した局面なく、公開することを約束したのであった。次に取り上げたのが施設保育所の児童取り扱いのことで、これはまことに惨憺たるものであった。だが、これらの叙述はこの稿からは省くことにする。心ある方は、『風雪の紋』の「悲惨!保育所児童」および「人権闘争(1)〜(4)」をお読みいただきたい。 $$$6  さて、実行委員たちは19日の大会からこの23日まで、不眠不休といってよい活躍であった。そして24日、2日にわたって行われた施設交渉の結果を総括したのである。  ところが、この日の午前中に提出することを約束していた慰安会会計と別途会計が提出されない。そこで催促に行くと、会計係の矢野真直の息子(小学生)が、六合(くに)村の須川で水死したため、葬式を出すなど取り込みがあり、休みをとっているばかりか今日は官舎にもいない。その彼が会計の帳簿類は持っていっているという答えだ。これはあやしい。帳簿を改ざんする気だ。となると、倉庫にある隠匿物資もどこかへ隠してしまう危険もある。そこで軽症者5、6人の組をたくさん作って、正門と職員官舎入り口に見張りを立て、移動を封じようということになった。また、会計係の矢野は居留守を使っているのかもしれない。そこで官舎までようすをうかがいに行くことになった。  このように話が決まったときはすでに夕方で、官舎の矢野宅へようすをうかがいに行く役は実行委員の門脇金治にあたり、この人が青年会員数人をつれて出かけていったのである。実のところを言うと、その一行の中に私もいた。そして官舎地区へ入っていったとき、すでに暗くなっていたが、庭でわんわん泣いていた小学校低学年くらいの子どもが、我々を見つけて泣くのをピタッとやめ、「母ちゃん、患者さんが来たよ」と奥へ向かって叫んだのを今でも忘れることができない。この子は女の子で、大きくなって看護婦になったのかどうか、後になって私が病気を騒がせ(悪化させて)失明し、神経痛を病んで病棟へ入っていたとき、官舎育ちだという看護婦がいて、自分が小さいとき、夜患者さんがいっぱい官舎へ押しかけてきた。あのときは怖かったなぁ、と言ったものだ。  さて、矢野宅へ近づくと門脇は後ろに従う青年たちに、  「どやどや入っていってはいかん。そっと庭先へ入って室内をうかがい、また道へ戻って結果を告げ合い、いないようだったらそのまま帰ろう」  と言った。そこで足音を忍ばせ、あちらこちらから庭へ入ったが、暑い季節なので障子は閉めておらず、室内はよく見える。そして、本館でちょくちょく見る矢野がちゃっかりいるではないか。しかもその人は庭に入ってきた我々の動きをすでに見てしまっているのである。そこで門脇は玄関へ回り、不満をあらわにして、  「矢野さんはいるではないか。なんで逃げ隠れする」  と言った。しかし出てきて挨拶をしたのは矢野真直によく似た兄なる人で、この人は慇懃に、真直は今ここにいない。いないわけは、と説明したのである。しかも真新しい位牌、白布に包んだ骨壷、写真、線香立て、花などが祭られた奥の間が見通しである。門脇は恐縮し、非礼を詫び、一同を促して引き揚げたのであった。  また私は正門の歩哨に立ったこともある。真夜中に叩き起こされて行ったこともあるし、昼間その番に当たったこともある。初めて特別病室に入ってみたのはそのときのことである。昼間、何人かの仲間と連れ立って行ったのだった。  24日から数日間、表向き何事もない日が続いた。実行委員会は2日行った交渉で約束させたことの結果待ち、というところもあったようだ。だが成果の分析など、話し合いや文書上の仕事に追われただろうと思う。この間、職員組合は大会を行い、患者のこの運動を全面的に支援するという態度を打ち出し、職員食堂の倉庫にあった米30俵は患者用と断定し、馬車に積んで患者の給食倉庫へ納めている。力強いことである。  一方、26、27日には、『毎日新聞』と『上毛新聞』にこの事件の記事が出た。「あばかれた栗生楽泉園/愛の聖地の内幕/耐えかねて患者起つ/狂死と獄死が続出」などがその記事の見出しだが、内容もショッキングなものであった。  国会ではこれらの動きを受けて、衆議院の厚生委員会で栗生楽泉園の問題が検討され、28日には急遽調査団が楽泉園に派遣された。ところが実行委員会はそのことを知らず、29日午後1時から患者大会を開き、そこへ園長を呼ぶことにしていたのだ。というのはこのころ、施設側にやや巻き返しの気運が起こり、患者の幹部数人と、これに同調する職員組合幹部の異動を企てているという噂が伝わってきたからである。そのこともあったが実行委員会では、運動はなお続けていかなくてはならない、広報活動は始まったばかりだ、もっと強めなくてはならない、といった必要もあって、大会を計画したのであった。  だがその大会に、先の交渉で約束したことはどうなったかを問うべき古貝園長は出席しなかった。そのため、募金だけを呼びかけて大会を終わろうとしたとき、共産党員・山本俊五が立って、煙草の配給についても不正がある、と発言したのだった。このような施設の場合、喫う人にだけ配給があるとは考えられない。成人男女全員に来ているはずだ、というのである。  それはとんでもないことだ、とばかり大会終了後、150人ほどが本館へ押しかけた。行ってみると園長以下幹部職員が本館にいない。なぜいないか聞くと、いま厚生省から調査団が来ているので、園長ほか幹部職員は調査団を案内して保育所あたりにいるはずだとの答えである。それはあやしからんと正門坂を駆け上がり、保育所へ行ってみると、まさしく調査団らしい面々を園長らが案内している。  「これは何事だ。我々に隠れて何を嗅ぎ回っている。調査団はまず患者側へ来るべきだ」  と激しく抗議すると、明日行くと答えるのみだ。収まりきらぬ思いはあるが、その明日を待つほかない。  この調査団は28日に来草して草津のホテルに投宿し、園の幹部と会い、対策を練り、29日保育所などを視察していたらしいのだが、あまり深く考えて対策を立てたふうはない。よしんば深く考えたにしても、あまり良い知恵は浮かばなかったようだ。というのは園の幹部を、「これは厚生省の方針であって、あなた方に罪の全部があるわけではない。あなた方は日常の任務を命令どおり遂行しただけだ」と励ましただけのようすなのである。  30日午前10時、中央会館に厚生省調査団の療養所課長・加藤英市、整備課長・川島三郎、技官・玉村孝三、関東甲信越出張所野村技官、高橋事務官他一名と園の幹部を迎え、これに対峙するいつもの形で実行委員会が座り、会館いっぱいに傍聴人が詰めかけ、この闘争が起こった理由、園の実態をとくと調査してもらうべく、藤田委員長が立って説明にかかった。しかし園の幹部はこれまでとは打って変わった態度であった。  一方調査団は、煙草配給に不正があったことなどを認めながら、これまでの施設運営は国の方針に基づくもので、園長も庶務課長も看護長も、それぞれ忠実にその任務を果たしてきたまでだと、患者にしてみれば怒りが突き上げてくる特別病室の件まで庇うありさまだったのである。たまりかねた藤田委員長は、「午前中はこのくらいでやめておこう。この続きは今晩七時からまたやろう」と言って話を打ち切った。というのはこの日午後から、草津町の共産党の斡旋で、町民と浴客相手に栗生楽泉園の真相報告会を湯畑でやることになっていて、その準備をしなければならなかったからである。  湯畑で行われたこの「伏魔殿楽泉園真相発表会」には、患者が初めて2人で担ぐプラカードを作り、それを先頭に立て、にわか覚えの労働歌を吹奏するブラスバンドが続き、役員は馬車に乗って堂々と押し出して行ったのであった。この一隊に私は加わらなかったような気がするのだが、お前も行った、お前がプラカードの足の片方を持ち、反対の足を俺が持ってしばらく歩いた記憶がある、と言う人もいる。これが事実だと、私は官舎あたりまでついていって、そこから引き返してきたのだと思う。ともかく、大変な好評を博し、町民も浴客もみんな泣いたという大和武夫の湯畑の名演説を、私は聞いた記憶がないのである。  プラカードの絵の記憶はある。これは尾内一夫が描いたもので、病衣を着た丸坊主の、手を合わせて座っている患者らしい人間の首に鎖をかけ、その鎖を警官風の男が引っ張っているといったマンガのような絵である。そして、「1日5円14銭で何が食えるか」と書いてあるのである。いかにもプラカードの絵といった感じで、粗雑だが、「温泉を楽しむ園」という意味で名づけられたはずの楽泉園、愛の心が溢れているはずの楽泉園の中で行われている悲劇をこれから訴えに行くには、むしろ相応しかったのかもしれない。  この真相報告会はたいへん時間がかかり、一行が帰ってきたのは六時過ぎであった。